un deux droit

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家庭を持つ資格

次女に続き、長女も妻も発熱でダウン。会社は早退するわ諸々の会議はペンディングだわ義母の協力を得てあれこれ買い出ししなきゃだわでてんやわんや。奇跡的に現在全員就寝中でひとときの休息を得ている。この二日間、保育園に次女を預けては差し戻し、妻に次女を預けては差し戻し、長女を小学校に預けては差し戻し、と差し戻し、とほぼ無意味な行ったり来たりの連続。ここは賽の河原か。

家族との暮らしは楽しいし、学んだことや自分に影響を与えたことは腐るほどある。あるけどとても大変。必要に迫られて、自分の考えや感情を曲げたり抑えたりすることがあまりにも多すぎる。多すぎてもはや結婚前の人格がどんなだったかまともに思い出せない。過去の記憶には自信があったのだが、どうも記憶は感情や欲望を紐付いているようで、その感情や欲望自体が衰退すると、それを手がかりにして思い出していた記憶ごと朧気になるようだ。

そのため、結婚前はなんでこの人と結婚したいと思ったんだっけ?どんな人生を歩みたかったんだっけ?という、自分のルーツとなる部分が根無し草となっている。それで不意に今なんで自分がここにいるのかわからなくなる。承転結の人生。昔の友人に会っても当時の自分がどんなキャラクターだったか思い出せなくて、地元に帰るのが億劫になっている。

結婚するまでの人生は、とにかく結婚しなきゃ、子どもを授からなきゃ、ということに囚われ、それだけを目的に生きていたように思う。生涯添い遂げたいと思う女性を探すことだけが関心事。どれだけ名声を極め、お金持ちになったとて、誰かと結ばれなければ無価値とすら思っていた。

なぜそこまで頑なに結婚信奉を抱いていたのかは、そのフェーズを過ぎてしまった今となっては思い当たる節がない。ハンターハンターのイルミの念じゃないけど、脳天に針が刺さってて、ただただ結婚に向かって駆動させられていたとしか思えない。自分の意志でないのなら、これが生物としての本能みたいなことなんだろう。その本能が発動せず、理性的な計算のもとで結婚しない選択、子を授からない選択をできる同世代人を羨ましく思う。今の子どもは親知らずが元々ない子が多いらしいが、それに近い。あんな痛くて怖い思い×4を最初からしなくて済む人生だなんて羨ましいったらありゃしない。



自分があの本能に囚われていなかったら、本当は独身が向いていたと思う。「あなたは人を思いやるという機能がまるごと欠落している」と、病床の妻から宣告された。これは、自分本位でケチで他人のために尽くしたくないのではなく、どうすれば他人に尽くしたことになるのか、その構造を理解する力がないという意味である。

人から頼まれたことはいくらでも応えられる。しかしそれは反応でしかない。つまり、自分の自発的感情を起点として、誰かのために何かをしたいと行動するのではなく、誰かが自分に信号を送ってきて初めて行動するのだ。病人の看病みたいに、私になにか信号を発信することが困難な人に対して、何も言われてないけど困ってるかもしれないと思いついて自分から声をかける、なんてことはしない。きっと寝ているんだろう、静かにしておこうと思う。それで相手意識不明になってたらどーすんねん、そのまま野垂れ死なせる気か、と妻から呆れられた。


乞われてないのに何かを差し出す、いわばお節介の機能がまるきり死んでいる。もとからないのか、子どもが何でもかんでもおねだりするのでリアクション一辺倒の生活に慣れきってしまったのか、妻が私のお節介のやることなすこと余計なことすんなと言い続けて心が挫けたせいなのかはよくわからない。(と言いながらおそらく最後の要因が最も悪影響。しかし妻は「余計なことすんな」という権利を奪うな、ダメ出しするためにおせっかいをし続けろと言う。つらたん。)とにかく今の私に自分起点で他者を思いやりいたわる機能はない。そんな人間は家庭を持つ資格がない。そんなふうに思っている。

お金がないとか自由がなくなるとかそういう要素は実はあまり問題ではなくて、自然に人を思いやれて、人を思いやることを素朴に喜べる人は結婚したらいいと思うし、そうでない人はいくら金があっても結婚はしないほうがいいと思う。人を思いやる気持ちさえあれば、手元の金が心もとなくとも幸せな結婚生活を営める。人を思いやる能力は才能なので、自分にその能力が乏しいと思っても卑下する必要はない。英語が話せないとかカナヅチで泳げないとかそういうのと同じ類。思いやりがなくとも、明確に指示が出てくる社会で生きていくのはそんなに難しくないから大丈夫。ただし結婚はやめておけ。言えるのはそれだけ。

私がとらわれていた「しなきゃ」

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