un deux droit

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「わがまま」と定義される範囲に関する地方と都会のどうしようもない格差

また今日も妻と喧嘩して出社が1時間遅れ。
完全裁量労働だからそれ自体で咎められることはないけれど、いい加減に回数を減らしたい。けれどもなかなか上手く行かない。自分が田舎者マインドから抜け出せないせいだ。

発端は、妻が朝食に使う用のバナナをジュースにして娘に勝手に与えたこと。これが最後の一本だった。
文字にするとひどいが、どうせ娘も全部飲むわけではないし、いつも妻が作るときは娘に分け与えている。飲む量は大体同じで手順が違う、というわけ。
そもそもレシピを私に伝授したのは妻だし、娘が飲みたがったらいちいち妻の起床を待たせてから妻が作るのではなくあんたも作れと指令してきたのも妻だ。そして、これまでも私の判断で飲ませていたことは度々あった。今日は妻が起きていて妻も作れる余地があり、最後の一本だったのがいつもと違う条件だった。

妻は、そもそも私の朝食の素材なのだから、使う前に一声かけるべき、という主張。使っていいかも聞かれずに勝手に使われるのは私の権利を尊重されておらず、存在を軽んじられている気分がする、とのことだ。つまり結果、娘に飲ませるという着地点に相違ないものの、「自分が自らの朝食を自らの意思で分け与えた」というステップが不可欠なのだそう。反応の鈍い私に妻は畳みかける。

「結論は同じで、分け与えられる分量も同じだけど、そのコミュニケーションを省略しないで。意味が全然違うから」

「あなたは子どものこととなったら平気で私の権利を侵害し、責任の範疇を踏み越えてくる」


はい、ぐうの音も出ません。おっしゃる通りです。
自分は家庭内の同調圧力に鈍感だし、平気で家族内メンバーに圧力をかけがち。みんながわがまま言うと迷惑だから、できるだけ皆が困らないように自制し合いましょう。そんなことを平気で思っている。

妻曰く、雪国の限界集落育ちだからそんな発想になるのよ、とのこと。
確かに、田舎は子どものわがままに対して親が払うコストが異様に高い。

お菓子食べたい⇒車で15分
映画見たい⇒車で1時間
自分は行きたくない⇒全員いけない

一事が万事こんな調子だから、自分が何か我を通すことで親がとても困ることになるだろう、ということは肌感覚で察していた。親は高圧的でなかったが、環境が高圧的過ぎで自分の意思をはっきり表明せず、家族が一番困らない選択をするのがデフォルトになって育ってきた。
けれども今私が住んでいるところは、私の故郷の優に300倍の人口がいる大都会だ。大都会ということは希望を叶えるためのコストが低いということ。一人一人の自由意思が同時に適うという素晴らしい環境にいるのだ。それなのに私の設定がクソ田舎マインドだから、子どもの要望や妻の意見が全てわがままに聞こえてしまう。空気読めよと思うけど、冷静に状況を把握すれば空気読まないとみんなが死ぬほど困るなんて関係に無い。それぞれが自由に自分の思い通りにふるまっても、ほんのちょっとのすり合わせで容易に落としどころが見つかる。その呆気なさを早く自分が受け入れたらいいのになかなかできない。

逆のパターンもある。普段我慢できることは主張せず飲み込むということは、主張するときは絶対に妥協できない事柄だということだ。この時の自分の極端なまでの頑固さというか意固地なところで妻の不評を買うことが多い。普段譲ってんだからこれだけは何も口を挟まず丸呑みしてくれと請い願う私と、主張してないことを譲られてるとは実感しないしどんな事柄にも口を挟む権利がある譲らない妻。これもまた着地点の無い平行線になる。

とにかくコミュニケーションを省略したい私ととにかくコミュニケーションを取らないと気が済まない妻。都会に住む以上私が全面敗訴でマインドチェンジしなければならないんだけれど、なかなか難しい。資源が乏しく、失敗と死が隣り合わせで、セカンドチャンスが与えられない恐怖心を植え付けられて18年くらい生活してきたので、そう容易には克服できないのだ。コロナを機に顕わになった、青森や岩手での狭量で排他的なマインドがいじられてるけれど、共感できない人は豊かな環境で育ってきた証左でもあるから、彼らを責めるのではなく、自身の幸運をひっそりと祝福してればいいと思うよ。