un deux droit

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娘は俺をママと呼ぶんだぜ

ツイッターなどで時折、うちの旦那がこんなに家事を手伝ってくれる、育児を頑張ってくれる。私を労ってくれる、私はなんて幸せ、みたいなのろけの投稿を見かける。そしてそれが多くのいいね!を集めている。そういうお花畑な書き込みを見るたび嫌な気分になる。こんな程度の協力で喜んでしまう寛容で出来の良い妻な私をアピールでもしているのだろうか。

夫婦間での家事育児の分担バランスは各家庭の稼ぎの多寡や近くにいる親の有無など事情が全く異なるので正解や平均などなきに等しい。なので夫婦共に満足するバランスが取れた時はそれはたまたまラッキーなだけで、本人達が対外的に誇っていいものではない。少なくとも他人が鵜呑みにして参考にすることはできない。持ち上げられた良き夫は他のどの家庭においても適合することはない。

だとしたら夫は何を基準に自分の家庭貢献度を測ればいいのか。子供のなつき度合いを指標にしている人もいるが私はそれも不十分だと思う。週末だけ遊んでやる父親は毎日対応していないため心の余裕があり、子ども達にサービス精神を発揮できる。だから子どもからの評価はそのレア度も相まって高くなる。こんなインチキな指標で自分は良き親だと自覚されてはたまったもんじゃないと多くの妻は思うだろう。一般的な母親は毎日の家事育児に忙殺されているので常には子どもにニコニコできない。毎日志村どうぶつ園を強制的に視聴しているようなもので、いくら幼子が可愛くともその気持ちを四六時中向き合って維持させるのは困難だ。人はいろんな体験を1日の中に混ぜ込んで初めて一つ一つの体験を張り合いのあるものに感じる。スポーツも読書もswitchも、1日中それだけをやっていたら楽しいと感じる気持ちは減退し苦行に変わってしまうように、子どもとずっと過ごしていると可愛いと思う感情ばかりをこすられすぎて可愛いと感じる心のひだが磨耗してしまうのだ。この境地に至って初めてプロの親だと思う。

最近1歳半の次女が徐々に言葉を覚え始め、私のことをママ、と呼ぶようになった。家ではお父さんお母さん、という呼称を使っているので、ママ、という言葉は保育園で学んだのだろう。なぜ私の存在をママと認識しているのかはわからない。保育園の送迎がほぼ私だからか、ご飯を作り風呂に入れ寝かしつけるといった身の回りの世話を担当しているからか、それとも私が世のママと同じ程度に疲弊した顔をしているからか…いずれにせよ娘は私のことを専ら庇護する責任を持つ者として認識しているようで、ママという呼称は親、特に父親として最高の評価を得たのだと思う。世の父親はパパと呼ばれていい気になっていてはいけない。性別をも凌駕して子どもからママと呼ばれる域にまで己を昇華させることができてはじめて、この育児家事の男女格差が著しい日本において真の意味で家庭にコミットしていると誇っていいのだ(暴論)。いずれにせよ思惑や打算の絡んだ妻からの評価よりも、子どものピュアな認識の方が信憑性が高い、という話。

余談になるが、次女は妻のこともママと呼ぶ。2人のママ。子どもは姉妹なので、次女の世界観では男が消滅している。もう現代において男性性の役割や利点は消滅し、むしろ弊害しかもたらしていないことの示唆に思えてきた。世界が女性だけだったらさぞかし平和で環境に優しい社会がすぐに実現できるだろうな。