un deux droit

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こじれた豊かさの概念

昨日は長女の誕生会。娘は祖母を家に招きたいと言ったが、妻が客人を家に招くことをひどく嫌うので祖母の家にお邪魔することに。人を招くにはしっかりと家を整備しなければならない→しかしその手間が惜しい。めちゃ疲れる→招きたくない、というロジックなので、永久に客人を招くことは叶わない。妻の中で私は他人ではなく、家を好きに散らかしていても気にならない家族認定されていることをささやかな喜びとしたほうが良いのかもしれない。

祖母からのプレゼントを開け、また私の北海道の実家から届いたお祝いで購入したプレゼントを開け、テンションMAXになった子どもたちの様子を北海道の私の両親へLINE通話でお届けする。見せたいところだけ、繋がっていて負担でない時間分だけ繋がれる素敵な時代。ますます帰省する意欲が削がれる。

たいして美味しくないチェーンの寿司屋で適当に腹を満たし、見掛け倒しで平坦な味の冷凍ケーキを流し込み、これが豊かということなんだろうかと一人思案する。

北海道の田舎暮らしは不便だったけれど、寿司といえばわざわざ港町まで出向いて、その日に釣れたものを頂いていた。ケーキだって工場で生産されたものではなく、素材の味がちゃんとする手作りの優しさがあった。そういう店は自然とウェットな人間関係がある。商品の売買以上の人付き合いがある。寿司屋だと、「お嬢ちゃんいくつになったの」「へぇ、じゃあこれも挑戦してみな」みたいなやり取りは普通にある。しかし妻は人とのやり取りを遮断したタッチパネルで、自分が食べたいものだけを選び、店員とは定形の、人間の体温を極力排除したコミュニケーションを好む。他者から世界を半ば強引に拡げられる、ということを忌み嫌う。本人はそれでいいかもしれないけれど、子どもたちにとってそれが絶対良いとは言い切れないなあという気持ち。

「大きくなったら、北海道の美味しい寿司屋に連れてってあげるよ」

寝る前に、長女にそんな言葉をかけた。長女は変な顔をしていた。とりあえず、まだまだくたばる訳にはいかないな。せめてあと10年。