un deux droit

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結果責任を取って「やらぬ」のも一興

いきなり屁理屈から入る。

このお題を「何に対してもやる気が起きない時にどうやる気を起こすか」という問いと捉えるならば、論理的に詰んでいる。「やる気ない時はいつもこの映画見て元気出してます!」って映画見るやる気があるじゃん、なんて突っ込んでしまう。「何に対しても」と定義している段階で、それを打開する手段を講じるやる気さえ起きないはずなのだから。それは確実に鬱の症状だし、幸いまだ私はそのような事態に直面したことがないので、対策がわからない。腹が減っても食べる気にならないとすればそのまま飢え死にするのだろうか。空腹など、生命の危機を身体が訴えていてもそのシグナルを無視して、何もしないぞと強固に思えるのはかえって強靭な精神だと思う。


このお題を「やるべき〇〇があるのに、どうしてもそのやる気が起きない」という事態に対する処方箋、という意味で捉えるならば、私はその答えを持ち合わせていない。どれだけ現実逃避の手段を講じたところで、元々向き合うべき対象に対する意欲が向上するなんてことはまるでない。強いて言うならば、散々遊び尽くすと不意に虚しさが訪れることがある。「俺は一体何をやっているんだ」と。その時渋々ながらもやるべきことに着手するしか選択肢のなくなる事態が訪れる。その意味において、飽きるまで遊び倒す、というのは問いに対する間接的な、でもそれなりの効用を持ちうる。

やるべきことに対して、やる気が出ない場合、本当にそれがやるべきことなのか、その対象が自分にとって「やる」に値しないことなのじゃないのか、と問う習慣も大切だと思う。心身が拒否反応を示しているならばその声とはちゃんと向き合うべきだ。人生とは往往にして意に沿わぬものを平然と押しつけられ、それを唯々諾々と受け取りがちである。どうせ嫌々やったものは大した出来にならぬのだから、すっぱりと手放すがよろし。

ちなみに人にやってほしいと頼んだことをいつまでもやってくれないのは死ぬほどムカつくけれど、それは人にやってもらう側に努力と工夫が足りないと思うべきなのだろう。安請け合いを良しとして自分を大切にしてこなかったもんだから、人が二つ返事で快諾しないことを許せなくなる。自分を宥して意に沿わぬことを断る習慣をつければ、もっと他人に優しくなれるはずだ。家族を持ち子どもと暮らして、人ってこんなにわがままでいいんだと日々驚いている。

今週のお題「やる気が出ないときの◯◯」