un deux droit

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死刑囚にも価値がある

死刑囚の犯した罪の原因を本人に全て押し付けてしまうか、人類全体が克服すべき課題と捉えるか。

死刑囚のことを、もし自分が同じ境遇だったら同じことをしたかも知れない。

自分にもひょっとしたら同じような残忍さや凶暴性が潜んでいるかも知れない。

と想像できるかどうか。

この想像力は病気や障害、生活保護の人に対して自分もそうだったかも知れない、これから自分もそうなるかも知れないと想像できるか、あるいは、自分とは全く相容れない存在とみなすかで制度に対する態度が180度異なるのと似ている。

死刑囚を自分とは相容れない、全く別の存在と思ってしまえば話は簡単だ。蚊を叩き潰すのと同じ感覚で死刑を支持できる。

しかし残念ながら、死刑は次の犯罪を抑止しない。これ以上やったら死刑になるからその辺で手打ちにしよう、と考量できる冷静さがあれば、そもそも最初の一手を打たない。

そして、その他の大衆も、死刑囚が死んでしまえばすっきりしてしまう。死刑囚が犯した罪そのものを未然に防ぐ措置を講じる動機が湧かない。犯罪者の境遇や背景に想いを馳せる必要がなくなる。そうして社会はより様々な境遇の人を包摂する機会を失う。

どうしたら凶悪な犯罪の発生そのものを社会全体で未然に防げるようになるのか、と思いを馳せる動機を人々に起こさせるには、死刑囚が生きているという理不尽と思える状態を抱え込むしかない。

人を殺すような奴は死んでよし、と思うことは自然なことだと思う。自分もそう思う。

しかし、そう思えるということは、条件さえ揃えば人は人を殺して良いという命題に同意することでもあり、その命題に同意できる人は本当に人を殺してしまうような人間が持つ残忍さを自らの内に自覚したほうがいいのだ。