un deux droit

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人の不幸は社会貢献

昨日父親会の知人のひとりが、SNSで離婚を発表していた。

投稿を見て湧き上がってきた感情は、驚き半分、ざまぁみろ、という歪な優越感がもう半分。

普段から羽振りがよく、小洒落た自宅で頻繁にホームパーティーをやったり、旅行やキャンプを頻繁にやる様が、ええかっこしいというか胡散臭いものをほんのりと感じていた。旺盛な自己顕示欲は必ずや家庭を破滅に導くのだ。

それはそうとして、人の不幸を暗に喜び、翻って自分の生活を肯定し、安寧を祝う心性を自分でも卑しいと思いながら抑えることができない。人の不幸は蜜の味、ということわざもあるくらいだから、多かれ少なかれ誰しもに共通する心性なのかもしれない。そうだとすれば人の不幸を自己肯定の糧にする罪悪感が薄まるのだけれども、人間というのは自分含めつくづく嫌な生き物だなと思う。

とは言え、何が不幸な状態なのかはそれぞれ価値観が異なる。なので、自分は不幸だと思わないけれども、多くの人にとって不幸な生き方をしていて、それがその多くの人の負の自尊心をくすぐり、人生にハリを与える一助となるのだとしたら、そういう人間は人類にとって貴重な存在なのだろう。

その意味においては、妻に顎で使われ、家事育児を黙々とこなし、飲み会も満足に参加できないほどプライベートを拘束されながらもヘラヘラと下っ端感情で日々をやり過ごしている自分のような存在は、男としての典型的な失敗例で、会社に蔓延るモーレツサラリーマン世代のおっさんどもにとってはうだつの上がらない自己を肯定する格好の肴なのだろうと推察する。生きてるだけで自分の存在が誰かのやる気に火をつけているのだとしたらこの上なくラッキーでハッピーだ。是非私の分の月給も稼いできてもらいたいと居間でくつろぎながら願っている。