un deux droit

このブログには説明が書かれていません。

文章自体は凡庸でいい

はてなブログで有料記事が書けるようになったわけだが、このご時世、個人や広報媒体に紐づいたブランドの「あしらい」なく、純粋に文字列単体でお金になるものってなんだろうか、とふと考える。

最初に思いついたのは、単なる文章ならもう同じようなものはどこにでもありふれているけれど、ブログラミングコードならばそれ単体で文字列としての価値があるかも?と思った。けれどもChatGPTが発展していけば、そのうちコードくらいなら書いてもらえるようになるんじゃないかとも思う。

今、自分の事業で使用するシステムの開発を業者に委託しているのだが、打ち合わせで「ここはこう直してくれ」「ここを押すとこういう動作になってほしいんだけど」「こういう意図を持った人が迷うからこんな動線に変えて」と、自分が脳内で描いたイメージを、SEさんがハイハイと聞いて次回の打ち合わせまでに仕上げてくる、というやり取りをしている。システム開発に携わるのが初めてだったのもあって、序盤は自分のアイディアをシステムの形で具現化してくれるSEさんが魔法使いのように見えていた。でも次第に、私に作りたいもののイメージがあるからSEさんも手を動かせるわけであって、SEさんの中にこういうシステムを作りたいというアイディアや情熱はないんだよなということに気づいてきた。

アイディアはあるけど技術のない私と、技術はあるけどアイディアのないSEさん。今のところ価値はドッコイ、いやSEさんのほうが軍配上がるかなというところだけれど、SEさん自身の中に作り上げたいシステムの構想や、解決したい課題、作り出したい社会のイメージがないと、ChatGPT的な何かで代用されちゃう日が来るんだろうなと思う。どれだけAIが優秀になってもAI自体が願望を持つことはない。だから願望があるうちはAIの主人として仲良く共存できる。

コードを書ける技術自体の価値が目減りして行く未来に思いを馳せると、そもそも文字列自体になにか価値が宿っていると考えている自分が錯覚に囚われていることに気づく。文字はあくまで記号に過ぎない。実体は人それぞれの脳内にある思考や、体験、感情の方にある。それを伝達可能な形で表現するために、便宜的に文字に代替しているだけなのだ。

「ちょー気持ちいい」という表現はありふれているが、アレを発したときに北島康介が成し遂げた功績自体に唯一無二の価値がある。「安心してください、履いてますよ」というお知らせ自体は、人類の殆どが下着を着用している現代においてなんの意味も生まないが、特定のシチュエーションと間合いを兼ね備えた時に唯一無二の笑いが生まれる。「愛してる」も「ありがとう」も言葉自体は何一つ特別感はないが、誰から言われたか、どんな関係性でどんな文脈で言われたかによって唯一無二の価値を持ちうる。

凡庸な言語表現に特別な意味を持たせるには、その表現しようとしている実体のほうの経験やアイディアを特別なものにする、あるいは発信する本人の人間性や受信する人との関係性を特別なものにするしかない。なにせ世の中には「腹減った」とか「眠たい」と呟くだけで数多の人を魅了することのできる人もいるくらいなのだから。それくらいの表現者になってみたいものです。