un deux droit

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加害者を憎むだけでは犠牲者は減らない

3歳児が8日間放置されて餓死していた事件について。

自分が子どもを授かる前だったら、同じ苦しみを味わって死ね、と切り捨てておしまいだっただろうニュースも、毎日子育てしていると、安直にこの母親を責められない歯切れの悪さを自分自身に感じる。
この母親と同じような未成熟さ、身勝手さを自分の内面に見るのだ。
育休も合計1年半ほど取って、育児に投下した時間量だけ見れば、世の男性と比べて褒められたものだとは思うけれど、根本的な人間に対する情の薄さ、のようなものがどうしても拭えない。
結局自分は育児という「作業」をしているだけで、子どもたちと心を通わせ成長を導くという営みはほとんど妻任せなのだ。
子どもと一緒に遊んでいるときにテレビに意識を取られる。
仕事のことが頭をよぎり子どもとの会話がお留守になる。
私が子どもの面倒を見ているときばっかり、お茶をこぼしたりケガをしたりする。
結局親のフリをしているだけで、内実が伴っていない。
妻はながらスマホもしない。子どもと向き合っているときは他に意識が取られない。
しっかり絵本を読み、おままごとにキッチリ付き合う。
ささいな成長を見逃さず、我が事のように喜ぶ。その顔を見て子どもたちもこの上なく幸せな表情を浮かべる。
私も同じように努力しようとし、何回かはそれっぽいことができたりもするが持続しない。
結局動機が妻に張り合っているだけだったり、自分が子育て不適格者だと認めたくない、というプライドでムキになっているだけなのだ。

それでも私の子どもたち二人が今のところ健やかに成長できているのは、ただただ環境に恵まれているとしか言いようがない。
人格者である妻、祖母、暮らしに不自由しない程度の収入、子育てに適した住環境。私の稼ぎ以外は全部妻が手配したものだ。
両親健在、貧乏も暴力もいじめも経験が無く、何不自由なくおっさんまでのうのうと暮らしてきてこの体たらくだ。
何か一つでも変数が狂ってダウンサイドに落ちていたら、自分も同じ運命をたどる素質があると感じている。

今の日本は、子どもが無事に大人になれるかどうかを、親の健全さに依存しすぎなのではないか。
もちろん親側が子を育てるのは大前提ではあるけれど、
べき論と、実際のところ健全な子育て環境があるか否かの実態は切り分けて考えるべきだ。
児相や養護施設が完璧だとは思わない。けれど、当たり前のことだけど、セーフティネットの枚数が多い分だけ最悪の事態が生じる確率は下がる。
安直に個々の家庭へと責任を凝縮せず、直接加害者への憎しみや嫌悪感を一旦脇に置き、どれだけ多くの人間や周辺組織が当事者意識を持てるか、あえて責任を分かち合おうと思えるかが問われているように思う。