un deux droit

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孤独感の正体

勤め先の全社員が集まる総会のようなものに顔を出すため、東京に行ってきた。心底くだらないと思いつつも、雇われの身としては拒否権がない。というのは嘘で、何か理由をつけてサボることはできるのだが、みんなが集まっているのに、自分だけがそこにいない、というのがなんだか悔しい、というのが本音であったりする。

特に自分は一人福岡にいて、同僚の誰とも同じ空間を共にすることがない。東京のメンバーだって在宅勤務が普及したせいで一同に会するという機会は皆無なので、普段東京のメンバーを羨むことはない。みんなそれぞれ一人きりなんだよなと思えているうちは、孤独を感じることはない。けれど、あからさまに自分だけ孤独というのは耐えられない。孤独というのは単に自分が今一人でいることを意味するのではなく、周囲は集団でつるんているのに自分「だけ」が一人でいる状態のことを指す。つまり相対的な指標なのだ。独身の苦悩は自分だけが独身なことで、付き合う人間を独身者で固められたら、実はそんなに苦痛ではない。

いざその集いに参加してみると、100人を超える人垣の中でもみくちゃにされて人酔いし、顔を出したことを早々に後悔する。一人ずつとは満足に言葉を交わし合うことも無い。喧騒にかき消されないように簡潔なやり取りに終始するわけだが、完結であるということはすなわち表面的であるということで中身のある意思疎通は望めない。これだったら静謐な空間でオンラインでやり取りしたほうがよほど相互理解は進む。そんな事実はこれまで何度となく経験して分かりきっているはずなのに、それよりも孤独の苦しみに耐えられないのだ。

人の集う場に顔を出す副作用は、会場を後にした際にも潜んでいる。一度同じ空間を共にしてしまうと、離れて一人になった時にもその存在を意識してしまうようになるのだ。孤独感にも苛まれ、同僚の反応が気になってしまう。集う前は誰にどう思われてもいいやと半ば投げやりな気持ちで、言いたいことを言い放題言えていたのに、一度顔を見てしまうと遠慮が生じてしまうし、Teamsへ何かを書き込んだときに誰からのリアクションがなくても平気だったのに、今日は自分の投稿にリアクションのないと落ち着かない気持ちになる。

経営陣が全員に集う機会に執拗にこだわる理由はここにあるのだなと理解する。つまり、他者の存在を意識させ、相互監視の状態をつくり、批判的な発言を躊躇わさせ、耳の痛い話が上がってこないような状態にしたいのだ。コロナ禍以降、経営陣の手腕や施策について、従業員からの辛辣な批判が増えてきた。それは直接対峙することによる圧力が軽減されて、対面では到底言えなさそうなことでも躊躇わずに言えるようになってきているのだ。

経営陣はその批判を聞きたくない。だから対面の場を作って物理的なマウンティングをかけ、分をわきまえろと凄む。するとしばらくは経営陣から目を逸らすことがてきる。私はその狡猾さに反吐が出る。

そんなわけで今日は、孤独感デトックスに1日使う羽目になった。 自分の書き込みに反応がなくても落ち込まないとか、相手への言葉を選ぶために時間を浪費しないようにするとかして、心を占拠した孤独感を胸の内から追い出すことに悪戦苦闘した。ここから土日を休めば月曜には孤独感に悩まされることもなくなるだろう。まったく余計な仕事を増やしてくれたもんだ。