un deux droit

このブログには説明が書かれていません。

カリスマ的支配にご用心

先日、職場風土改善の成功事例を取材しに、とある企業の工場を取材しに行った。取り組み内容と、当社の支援がどう織り混ざって成功に導いたのかをメディアに掲載することが目的だ。私自身はその事例についてノーマークだったが、社長と営業担当がぜひとも記事にしてほしいと推すので、のこのこと出かけていった。

今回取材の対象に選んだのは、その工場の中でも極めて離職率の高い部署だった。全員が全員の悪口を言い合って始終空気が悪く、コミュニケーションが疎遠で効率も悪く、残業も多く不良品率も多い、みたいな地獄の状態になっていた。そこに腕利きの組織再生人が課長として抜擢されたのだった。

課長がやったことはそれほど特殊なことではない。挨拶を必ずする、目を見て対話する、話を聞く、期待を伝える、そして、ビジョンを示す。ごくありふれたことを徹底しただけ。とにかく一人一人の存在を承認し、ここにいてもいいんだという安心感を作り、悩みや希望を発言することをためらわないで済む空気の情勢に腐心した。半年はほとんど変化がなかったが、一人、また一人と心をひらいてくれる部下が増えてきて、前向きなムードが閾値を迎えた瞬間から職場の改善案が堰を切ったように溢れ出した。あとは特段テコ入れの必要もなくPDCAサイクルが自走した。数年前まではお荷物部署だったのが嘘のように、その改善アイディアが全社の表彰にノミネートされる常連となるまでに変貌したーーー。

なんだかありきたりなドラマのプロットみたいだけれど、事実だから仕方がない。ドラマの絵空事を現実にしたのだから、それはそれで価値を認めなければなるまい。

私は職場改革のキーマンだった課長から直接話を聞く機会を作ってもらった。会議室に訪れた課長に対する初見の印象は、正直なところあまり良くなかった。関西訛りがきつく、人相も酷薄な感じがし、タバコ臭く、身体がでかく、口も悪い。しかし、いざ話していくうちに、あっ、この人は人間力が尋常じゃない、と感じさせるやり取りが端々に感じられた。一緒にインタビューした部下数名の、課長を見る目が親愛の情に満ち満ちている。課長のスパイシーなツッコミにたじたじとなったと思えば、課長が急に真顔で褒めだしたりしてそれにデレたりと、完全に翻弄されている。課長といるのが居心地良くて、課長に話しかけられたくて仕方がない、という感じでいい年したおっさん達が尻尾を振っている。赤の他人でここまでの関係性ができたらもうなにやっても勝ちじゃん。そんな印象を持った。

その後職場で働く風景も見学させてもらったが、インタビューのときとは一転、課長は険しい表情で職場を巡回している。そして気になったことを班長や職長の耳元で指示出ししている。表情は真剣だが、声のトーンは極めて落ち着いていて、柔らかい物言いをしていた。頭ごなしに命令するのではなく、対等な目線で、部下の考えを尊重し、励まし、やらせてみる。真剣な表情の中で時折見せる控え目な微笑みが安心感と勇気を与える。いかにも名監督の器だった。

インタビューを終え帰路につき、ふと、あの課長が異動になったあともあのチームは引き続き機能するのだろうか、ということが気になった。課長はインタビューで、自分がいついなくなってもいいように、後継者育成も進めていると言った。けれど、あのカリスマ性は教育で身につくものではないだろう。抜擢した人間にカリスマ性が備わってなければ、やり方を真似ても結果は伴わない。この職場の10年後を案じて暗い気持ちになった。


カリスマ性に依る支配というのは、人間社会において甘美な毒だ。あの人が言うのなら、と無償の奉仕を喜んで差し出す人間が続出し、それらの人間は本来の能力以上のものを引き出されてしまう。結果として本来の能力の掛け合わせ以上の成果を短期的には出すのだが、その出し方を自分でコントロールしているわけではないので、自力では再現することができない。その結果、カリスマがその場を去った途端に魔法が解け、もとの体たらくに戻ってしまう。元の木阿弥になればマシな方で、大概は心身の限界を超えた酷使を自らに課したため、能率が下がったり体を壊して後遺症に苦しむことになる。

本当はいかなる他者に対しても陶酔することなく、自分だけが自分の主人である、という状態を保ったほうが健全である。そうやって自立した人間同士が対等性を担保しながら民主的に物事を決めていくほうが、当人たちにとって害は少ない。それでも人はカリスマに陶酔する物語を求めてやまない。プロスポーツはその典型で、日夜新たなヒーローを輩出しようと躍起になっている。そしてそのコンテンツを日々消費している私たちは、知らないうちにカリスマ的支配の構図に慣らされ、免疫がなくなり、当然視し、人が形成する組織の理想形として憧れる。たかだか数分、数時間、人間が爆発的な能力を発揮するための特殊な装置でしかないスポーツの仕組みを、年間200日稼働する労働に当てはめて人間の限界を突破させようとビジネス界のリーダーは画策する。いやいや、従業員の身体もたんて。早晩燃え尽きる。けれどもビジネスの正解としては、働く人を安い賃金で最大限燃焼させてエネルギーを抽出することだから、そもそも従業員の長い人生なんか考慮していない。問題はそれを一般大衆が受け入れてしまっていることだ。スポーツで熱狂するだけならまだしも、その後さらにカリスマ的支配をビジネスシーンに焼き直した「カンブリア宮殿」「情熱大陸」「プロフェッショナル〜仕事の流儀」のようなコンテンツを追加で消費しカリスマ時間支配に耽溺する。

カリスマへの信奉は、支配者にとっては一般大衆から限界を超えた奉仕を引き出すために都合が良い一方で、一般大衆にとっては自己決定の責任から逃れられるために都合が良いのだ。たとえ本来の労働寿命よりはるかに早く燃え尽きる運命だとしても、カリスマに突き動かされてしゃかりきになっている状態を「楽」で「快感」と錯覚してしまう。それでも労働のシーンにおいてカリスマ的支配は長く続かない。人事異動があるし、そのたびにまたカリスマが現れ続ける保証はない。もし次の課長がカリスマではなかったら、必ず揺り戻しが起こる。前より悪くなる。急激にダイエットすればすぐにリバウンドするように、面倒でも時間を掛けて少しずつ生活習慣を変えていくことでしか、良い状態は定着しない。会社にとっても本当ならば、カリスマを切れ目なく量産するより、従業員に「自らが自らを主人として自律的に考え動く習慣」を身に着けさせたほうが長期的に見たらその時々の管理職の手腕に左右されずに安定的な労働供給が叶うはずなのだが、そんなことを言う人はほとんどいない。そんなスパンで労働を観察する余裕が資本主義システムには備わっていない。人間はどこまでいっても代替可能な部品にすぎないのだから。

あの工場の労働者は10年後どのような顛末を迎えるのか、自分がまだこの仕事をやっていたら、自分の予想が当っているのか観察しに行きたい。スクラップに回されてない人が少しでも残っていてほしい。