un deux droit

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it's a wonderful world

妻から久々に殴る蹴るの暴行。今回は流血には至らなかったが、土下座の時に頭を数回踏みつけられてなんだかぼんやりする。一思いにやってくれたらいいのに。生命保険のことは伝えていないから、うまいことやれば大金持ちだ。妻は憂さ晴らしに外に出ていった。
 
妻は私の言葉遣いで気に入らないことがあり、その点で微塵も寛容になることはない。それこそ憎悪の念に駆られて暴力に訴えるくらい神経に瘴るらしい。一方で対等な関係でないような卑屈さ、萎縮した姿を見せるのも同様に憎悪。この二つのどちらも両立させるのはとても困難だなぁと思う。

人間関係において、何か特定の領域に関して一般の譲歩もしないと宣言することは対等性を放棄する行為だと思う。たとえわかり合うことが困難で不毛な対話がどれだけ続こうとも忍耐し続けることで対等性は担保される。この点は議論しない、逆らうならゲンコツだ、と暴力を持ち込む相手を対等な立場だと信じるのは頭が狂っている。

ということはだ。妻は私に狂えと言っているのだ。対等でないと心から信じ、いつでも即座にあなたが全て正しく私が全て間違っていると答えられる用意をしておきながら、その気配を決して気取られてはいかない。決して私の意思を表明せずに、しかしさも私は独立した人間かのように振るまう。全ての決定が妻の希望通りだが、全部を2人で導いた結論のように妻が感じられるようにする。私は何一つ自分の個人的欲望を望まないが、全ての欲求が叶って満足であるという態度を取る。暴力を受けても尊厳を失わない。離婚をせずに家庭を運営していく上で私が飲む条件だ。私が子どもと離れる根性がないので狂う道を選ぶ。将来を心配せずともうつ病で即死しそうだ。

子どもの育て方も細心の注意が必要だ。全ての雑務は私を遣い妻に負担が行かないようにしながら、避けていると感じられないように神経を尖らせる。それでいて自分の存在はできるだけ消して、子どもが私を慕わず妻を敬愛する様に誘導する。全ての良きことは妻のおかげ、全ての悪いことは私のせい。妻が帰ってきた時に明るく卑屈にならず全ての罪を背負えるかが勝負。