un deux droit

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「ダメ出し」という形の愛情表現

今日も性懲りも無く会話の問答でつまづき、妻から話法の添削を辛抱強く受けているとふとあることに気づいた。

「もしかしてこのダメ出し自体を日常会話として楽しんでません?」

妻から「そうよ」と即答。こういうスタイルのおしゃべりをしているだけ。目的はただ私とダラダラと日常の他愛のないことを会話することにあり、内容はさほど重要でない。だから話が延々とループしたり、例え話が次々と出てくる。それは単なる嫌味を言いたいだけの遅延行為に見えるけれど、妻はただ他に会話のテーマがないから暇つぶしでやっていたのだ。別に私を痛めつけて懲らしめてやろうだとか、一緒にいるだけで神経が逆撫でされて仕方がないとか、そういう意図はさらさらない。仮に妻がそのような嫌悪感を私に抱いているならば、そもそも会話自体を極力しない、あるいはさっさと離縁するとのこと。

「そもそもね、あなたがもっと自分のことをあれこれと話してくれたらいいだけのことなのよ。とにかく適当に言葉のラリーをして、程よく汗ばんでくる程度までやったら終いなの。中身は何だっていいの。それこそ他愛のないダメ出しだって構わない。そうやってなんかラリーしたな、って感覚が積み上がっていくことで他人同士は親密になるの。スキンシップみたいなものよこの雑談は。」ーーー妻はそう断言する。

私としては、とにかくこの苦言の時間が耐え難くどれだけ短くできるかと躍起になってはそれが叶わずストレスを溜め込んでいたのだが、全くの無意味なことだった。そんな真剣に受け止めずアハハと笑い飛ばして楽しめばいいのよなんて彼女は嘯く。むしろ会話を切り上げないこと事態が唯一無二の目的だったのだ。これはもう衝撃的な事実と言うより他ない。

私は妻があまりにもダメ出しが多くそれが不快だったので、私の話をできるだけ聞きたくないのだ、私の会話技量が気に食わないのだと受け止めて、できるだけ自分の話はしないようにして、相槌を打つことに専念してきた。あるいは用もないのに外出して無闇に接点を作ることを避けた。何一つ文句を言わせない徹底的な防御体制だ。そうしたら妻は私の人となりがまるでわからなくなった、それが疎遠に感じるし、仲良くなりたくないのかなと不審感に繋がっていると言いだした。そりゃそうだよ私は意識的に自分の存在を殺し、気配を消してきたのだから。だから妻にとっては妻が私にダメ出しをする事で、それを受け止めて私が真摯に述べる反省の弁が唯一の自己開示となっていた。それを引き出したくてダメ出し作戦を敢行していたというわけだ。

だから私があれこれダメ出しされたくなければむしろ自分から積極的に話をし始めて、妻が満足する1日のラリー回数を積極的に消化していくしかなかったのだ。そうやって妻の満足する発話量をまめに減らしていけば、いざ何か苦言を言う局面が訪れてもすぐに鎮火する。逆に失点をしまいと会話を避けていると、ガソリン満タンの妻に火がついて、残りの発話量が全て愚痴の燃料に費やされてしまう。と、こういうメカニズムだった。なんて馬鹿馬鹿しい攻防だったのだろう。

ともかくも、妻には私は日頃どんなことを考え、何に感情を揺さぶられ、関心のありかが何処にあるのかをもっと共有しなければならなくなった。ブログに日々の雑多な心中を吐き出して成仏させている場合じゃない。
もっとも、私の自分語りに対する妻のフィードバックは「つまらん」「何が言いたいかわからん」「話が長い」のどれかだろうけれど、それが彼女なりの親愛なるスキンシップの現れだというのだから仕方がない。私は大変な人と結婚してしまった。どうせ話すなら内容に関心を示してくれる人が良かったな。