un deux droit

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門出を軽視し続けて

3月にセミナーを依頼していた講師から、「一人娘の小学校の卒業式とかぶっていたことが判明したので、別の講師に差し替えてほしい」という依頼があった。昨年のうちに契約書を交わしている案件で、受講者は100名規模、会場も抑えて先方の社内で告知も始まっている段階。おいおい勘弁してくれよと思ったが、まぁ聞くだけ聞いてみますよと請け負う。私から「プライベートな予定で講師を差し替えたい」と申し出るのは気が引けたので、「講師の予定がバッティングしたので差し支えなければ代替講師でお願いしたい」とメールした。案の定、差し支えるのでこのままの講師でお願いしたいと帰ってきた。

その旨を当該講師に伝えると、承知しました、と帰ってきたものの、昨日の深夜になって「やっぱりもう一度先方に掛け合ってほしい」と要請があった。あらかじめ予定をブロックしていなかった自分にも落ち度はあるが、自分の人生にとって大切な日だ。それを犠牲にしてでも仕事を優先すべきというスタンスがこの社内で共感をされるなら私は甘受してセミナーに向かう。けど私のセミナーのクオリティは保証しない。そんなメッセージが来た。

そこまで言うほど大事な予定ならブロックできるはずでは、、と思ったが、ここでようやく講師の要望が「できれば避けたい」ではなく、「なんとしても避けたい」というニュアンスだったと判明したので、「わかりました。先方に率直に事情を説明して、先方に拒否権のない強めのお願いであることをしっかり伝えます。卒業式には参加できる事を最優先で動きますのでご安心ください」と返した。このことで違約金や契約解消になった責任は営業担当の私に乗っかってくるのだが、たまたま私は営業としての沽券も矜持も枯れ果てたところだったので、私としては構わなかった。他の営業だったら相当トラブっていただろうから、私が営業担当で良かったね、と思う。それよりも私が気になったのは、「そんなに子どもの卒業式って行きたい?」ってことだ。この点について、全く共感していないことが、はからずも露見してしまったことについて決まりの悪さを感じている。

自分が小学生だった頃、卒業式に両親が来ていたという明瞭な記憶があるわけではない。多分来てたんだろうな、くらいのもので、来てくれて嬉しい、という感情は確実になかった。それよりも大勢の前で行進し、卒業証書を受け取るときにヘマをしないかという緊張感や、ずっと立ちっぱなしでいなければならない時間帯が多いことに対する苦痛のほうが鮮明に覚えている。もしかしたら入場行進の際、父兄席に両親の姿を捉えることができたかもしれないが、その有無で自分の自己肯定感はさして変わらない。そのコンマ数秒の瞬間を生み出すために、ここまで他人に迷惑をかけることができる人間がいるのだ、そしてそれは多数派なのだろうということが自分の胸中に暗い影を落としている。共感できない。共感できる人間でありたかった。

私が生まれ育ったのは北海道の寒村で、同級生の親の半分以上は農家だったから、入学式や卒業式でも仕事を優先して、来ていても片親、場合によっては両親とも参列しないということも普通にあった。子どもの門出よりも大人の仕事(農作業)のほうが価値が高い、こんなド平日に両親が雁首揃えて参列できるなんて気楽な身分だ、と軽侮される嫌いすらあった。私の親は農家ではなかったものの、そういう空気感にどっぷり18年間浸ってしまったので、門出を大事にしない人間になってしまった。

大学ではその全期間を学生寮で過ごし、寮長をやったりもして寮の運営にも深く関わっていたものの、いざ自分が卒寮するという段になったら、在寮生に盛大に見送られるというセレモニーがどうも苦手だった。3月終盤になると、ある程度寮生活で名を馳せた人物は、ただ寮を離れて東京に出向く、というだけのタイミングでわざわざコンパを開き、ある程度へべれけになってから数十人にエールを送られて出立するのが定番だった。その最上級は、わざわざ寝台特急カシオペアを予約して、札幌駅のホームで見送られるというセレモニーで、そこまでやる輩は年に1〜2人。いずれにせよある程度の人数を集められる人望のある人間、ということで、それなりに名を馳せたやつにしか許されない儀式だった。

私はそういうやつに限って、OB風を吹かせて卒業後も頻繁に遊びに来ることを知っていたので、今生の別れでもないくせに大げさだな、と思っていた。そんなわけで私は後輩のありがたい申し出を断り、寮内になんの告知もせず、卒業式2日前の夜明け頃にこっそり出発した。最後に一緒の部屋だったメンバー10数人のうち、起床できた人間4〜5人が律儀に見送ってくれた。一応の礼儀として、校歌を歌い、送辞をもらい、答辞を述べ、寮歌を歌ってから、トンズラした。雲一つない澄み切った朝晴だったことを記憶している。

で、そのあとの私は一度だけ後輩の卒業コンパのために寮に立ち寄ったくらいで、札幌自体にほとんど寄り付かなくなった。今生の別れなんて大げさだと笑っていたら、本当にそうなってしまった人間が大勢いる。そしてそれを悔いるでもなく、まあそんなもんかと淡々としている自分もいる。人間関係の維持に頓着しない。自分はそれでいいのかもしれないけれど、人間として大切な感情や執着心が育たなかったんだなとは思っている。そのせいで、人の門出に対する思いについても感情移入できないで、話のわからないやつだと思われてもいる。

娘が卒業するときに、義務感でなく、心から祝う気持ちになれるといいな。