un deux droit

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第一章 エイプリルフール 1

人身売買

 今、私の目の前には、ダンボール製のプラカードが二枚差し出されている。一つには「寮歌部屋」、もう一つには「スポーツ愛好会」という文字が殴り書きされている。そのプラカードを持つ男二人は、どちらも屈強な身体を誇らせながら、不気味なまでに満面の笑みを浮かべ、「こっちに来い」と手を差し出している。このどちらかの手を選ぶしか本当に選択肢は無いのか。あまりに唐突で想定外の展開に頭が追いつかず、しばらくの間呆然と立ち尽くしていた。
 このどちらかの手を選んだ瞬間から始まる奇妙な共同生活。そのあまりにも現実味のない4年間は、冗談にしてはあまりにもタチが悪いけれど、1年で唯一嘘をついていいとされている日から始まったのだったーー



 ーー滾青寮(こんせいりょう)は寮生によって運営される自治寮です。

私は札幌行きの快速エアポートに揺られながら、これから新生活を始める学生寮の入寮パンフレットを、うんざりとした気分でまためくっていた。


 大学の無機質な入学案内や、諸々のチラシに紛れ込んでいたソレはひときわ異彩を放っていた。手書きの文字と下手くそな絵で全編お送りする奇怪な冊子。「共に住み良い環境を形成するために、寮生同士の民主的な話し合いを大切にし、自らの手によって運営する」というポリシーの元、男女合わせておよそ500名ほどが生活しているという、破格の規模を誇った学生寮だ。
 私が大学進学と同時に、滾青寮へ入寮することを決めたのは、完全に親の意向だった。正確に言うと、入寮申し込みをされていたことすら知らなかった。農業高校卒と商業高校卒という牧歌的な夫婦だった両親は、自分たちの息子が大学進学を希望することは人生設計・資金計画上の想定外だったらしい。私にとっては大学進学=寮生活となることが想定外だったのだが、私も出来るだけ親の負担は減らそうと、親の意向に素直に応じた。
 初めて親元を離れて暮らす、華々しい学生生活。そんな充実した日々をぼんやりと期待していた私が、住まいに望むことは只一つ。それは、寮のコミュニティとできるだけ穏便な距離でゆるゆると過ごすことだった。土地勘のない場所で一人暮らすことの心許なさがなかったわけではない。そのため、寮生活からスタートすることで、同窓生といち早く交友関係を築けること自体は悪くないチャンスだと思った。ただ、パンフラットを見る限りでは、どうにも好ましからざる人物が相当数生活していることも予見されたので、どの部屋に入れるかが新生活のスタートを左右することは間違いなかった。

 ちなみに、この寮における部屋の概念は、10の個室と共用のキッチン、トイレを1セットにして「部屋」と呼ぶようで、要するに生活空間をシェアする小単位のことを指すらしい。部屋ごとに運営ルールがあり、距離感や気の合う者同士で共同生活を営む、ということなのだろう。その10人一部屋が各フロアに2つ、階は5階まであり、それが5棟もあるのだから、単純に計算して50種類の「部屋」がある。どの部屋に入れるかは部屋決めというマッチングの機会があり、基本的には入寮する側の自由意志により選択させてもらえるらしい。
 そこで安心をさせてくれないのが、パンフレットの別冊として付いていた各部屋の紹介冊子だった。その冊子には、それぞれの部屋の住人が自分の部屋の特徴を思い思いにしたためてあった。その内容のどれもが一様に漠然とした不審感を抱かせるものだった。ヒッチハイクでダーツの旅、朝まで麻雀、プロテインで肉体改造…住人達には魅惑のフレーズなのかもしれないが、全く心惹かれない。新入りを歓迎する意図が本当にあるのか疑わしい。しかも、各部屋の紹介欄には、空き部屋予定数が書いてある。その部屋に卒業生がどの程度いるかによって、入れる人数が変わってくる。ということは選べると言っても実質早いもの勝ちだ。そんなわけで私は、入寮受け入れ日初日である4月1日の、できるだけ早い時間に寮まで到達できるようせっせと移動しているのだった。
 せっかく寮に入るのだから、全く交流が無いのも味気ない気がする一方、こういったガチ勢に飲み込まれるのだけは断固として避けたい。何とか適度な距離感でぬるくやっていける部屋はないものか・・・焦燥感に駆られてページをめくっていくと、ジャンクな情報の山の中に、「まったりテレビゲーム」とだけ書かれた部屋を見つけた。薄いシャープペンシルの文字が心許なかったが、エクストリームな生活をしている人ばかりではなさそうだ。なんとか穏当な部屋に滑り込みたいという切実な思いで、その蜘蛛の糸のように細い字を、私はもう一度凝視した。