un deux droit

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そこに「愛」はあるんか

私は妻の口の効き方が嫌いだ。

「なんでも〇〇なん?」と、あたかも相手が100パー悪く、他罰的な言い回ししかしない。

家族に限らず人間関係は相譲らなければうまく回らないというのに、自分はそのまま、相手は完全譲歩。その論理的根拠は私が不快だからだ。世界中の誰一人不快にならない行為であっても、私が不快だと感じるならば直ちに停止しなければならない。なぜお前がそれを叶えなければならないかというと、それが家族の幸せを願うものとして当然の振る舞いだ。私の言い分を受け入れないということは私の幸せを望んでいないからだ。愛する人の幸せのためにこんなことも譲れないようなケツアナの小さいやつは出ていけ。

とまあこういう理屈。


私は譲れといわれたものは全部譲ってきたが、せめて譲らせるときの言い方だけもう少しお願い調にならんのか、あまりにも態度が悪くて不快だといつも主張している。

しかしその訴えはいつも棄却される。

妻曰く、被告は原告を訴えてはいけない、ということ。

妻の視点では、なにか不快な要求を突きつけられたから、交換条件で私が不快だと思うことをやめさせようとしている、それで相殺、おあいこだ、と企んでいるように見えるらしい。

不快なものと不快なものの等列、という単純な構図ではなくて、内容オッケー形式勘弁っていう話なのだが、妻にはどうしてもわかってもらえない。

まずは内容の話の方がつくまで他の話をしてはならない。そこで決着がついてから形式の話を新たに始めるのは良い、といつも言うのだけれど、その順で話しても「形式の話を新たに始めるのは、結局内容の話が納得行っていなかったことの仕返しだ」と切り返して話を向こうからごちゃごちゃにしてくるし、日にちを空けたら「そんなことは記憶にない。その場ですぐに言わなければ証拠がないから無効である」と言う。結局何一つ私に譲歩したくないし、私起点での反省は絶対にしない。


自分で書いていて、妻の言い分はまったくよくできた理屈だなと呆れるよりほかない。「自分絶対悪くない仮説」としては論理の隙がない。





ところで私はこの一連の理屈のどこに「愛」を感じたら良いのでしょうか。

なぜそんな事を言いのけても、生活を継続してくれるという自信があるのでしょうか。