un deux droit

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白旗を挿したまま息をしている

妻が転職してから一ヶ月。「もっと早くこのクラスの会社で私は勤めるべきだった。そうしたらもっと違う人生だったのに」ということをしばしば口にするようになった。そのたびに私はいたたまれない気持ちになる。

妻の新しい勤め先は東大早慶がゴロゴロいるような会社で、皆頭の回転が早く、それでいて性格も申し分ないらしい。そんな中に混ざって活躍できている手応えを妻は感じているらしく、自分自身を過小評価していた、と歯噛みしている。

自意識過剰かもしれないが、「違う人生だった」の中に「もっとレベルの高い人と結婚できたはずだ」という意味が含まれているように感じている。私との会話に明らかに退屈しているし、私に対する関心も失っている。

それもそのはずで、私自身妻に対しては基本的に心を閉ざし、できるだけ自分の思考が洩れないように防御するのが癖になってしまっている。とにかく会話の中で失点しないことだけを心がけ、妻が不愉快になり喧嘩の火種になりそうな話題や意見や言い回しを可能な限り排除するよう気を張っている。その隙間がなければないほど妻は私を攻撃する糸口を見いだせない代わりに、私の志向も願望も思惑も希望も何一つ掴めなくなっているはずだ。

私が日々何に喜びを覚え、何に憤り、何に関心があり、何を憂いているのか、おそらく何一つわからない。それらが何一つわからない人と一緒に生活し続けることはさぞかし気味が悪かろうと思う。私がこんなブログを書いていることも、日々筋トレを欠かさないことも、一人カラオケに毎週興じていることも、今日冨樫義博展に行ったことも、妻は何も知らない。何もやましくないのに、妻の目に触れないように行動するのが板についてしまっている。自分に関することはことごとく共有していない。私の仕事の内容や、それについての日々の悩みや、今抱えている問題についても皆目検討がつかないはずだ。それくらい徹底して、情報を出していない。もはや、婚姻生活を継続する動機がどこにあるのかもわからないだろう。なぜなら私自身よくわからなくなっているのだから。

こんなに自分を隠して、殺して、誤魔化して、私にとって家庭生活がもたらす意味はどこにあるのだろうか。妻と同じ空間にいると、自分をさらけ出す機能が萎縮しきってしまい、条件反射で心が閉じてしまう。

妻が誰か他に好きな人ができて関係を解消してくれたら、心の底から安堵する。私には妻を幸せにする力も技術も意欲も資格も権利もない。妻にとって何も愉快や刺激を提供できない退屈な存在に成り果ててしまったことを詫びるしかない。