un deux droit

このブログには説明が書かれていません。

陽炎

9月の勤務が終わった。

9月は東京に行くはずの機会が三度あったが、どれもオンラインで済ませた。一つはインタビュー、一つは全社会議、一つは座談会のファシリテーター。会議はともかくとして、残りの二つは自分が場を回すのに、わたしだけが現地にいない、というかなりトリッキーな状況。それでもなんとかやり抜いたのはお客さんの協力あってこそ。素直に感謝したい。

オンライン全盛とはいえ、自分だけがオンラインで、残りのメンバーが全員現地というのは流石に心もとないものがあった。今日は座談会があったのだが、私がteamsで待機している間、現地では機材トラブルでなかなか接続されなかった。その不具合について説明されることもなく開始時間が過ぎた。結局その後無事に繋がり、5分遅れで開始できたものの、わたしがオンライン参加のためにわざわざスピーカーとカメラを繋いでもらう手間をかけたことを詫びた。そういうお膳立てを現地の人にしてもらって初めて、サテライトでコミュニケーションが取れる。ふと、身体障害者の方が車イスを押してもらって電車に乗るときも、こんないたたまれない思いをしているのかなあとぼんやりと思った。

わたしの立場ってとっても儚いバランスの上にある。対面で話していて、他人の話を物理的に遮ることはかなり難しい。特に大の男を相手にして、この人の話ウザいなあと思っても、お願いして止めてもらえなかった場合、羽交い締めにして口を塞ぎ無理やり会話を停止させることはできない。けれどもオンラインであれば、現地の人がわたしの発話をミュートにすれば黙らせることができる。少なくともわたしは遠隔地で懸命に喋っているのだが、現地では口パクの間抜けな男が液晶画面でジタバタしている様子しか伝わらない。それすらも鬱陶しければノーパソをパタンと閉じればいい。何たる非対称性。そんなことを現にやってくる人はいないけれど、オンライン会議というのは双方に会話の強制終了権があるという際立った特徴を持つことに、どことなくおかしみを感じた。とりあえずわたしはミュートにされないように対面の2〜3割増で懸命に語りかけたような気がする。

今月はアンディ・ウィアーの「火星の人」を読んでいて、主人公とわたしの置かれた環境を勝手にシンクロさせて楽しんでいた。そのせいもあって今月はなんだかセンチメンタルな気分でオンラインコミュニケーションを捉えていたのかもしれない。

「火星の人」は、不測の事態で火星に取り残された主人公がありものの資材で懸命に生き延び、どうにか地球と交信して、自身の救出を試みる物語。わたしも一人福岡にいながら、大半のメンバーが東京にいる会社に勤め、広報誌の編集長として全顧客に向けて会報を送っている。火星(福岡)にいるわたしからは地球(東京)にいる読者の反応は直接窺い知ることはできない。独白に近いわたしの原稿が日本中に漂流して、誰かの行動や購買意欲を刺激しているらしいことを人づてに聞くが、わたし自身にはなんの手応えもない。わたしの文章を読んだ人も、今回の座談会に参加した人も、インタビューをした相手も、現物のわたしに会ったことはないのだし、これから会うこともない。どんな反応があるにせよ、それぞれの顧客には現地に営業担当がいて、そいつが直接的な関与をして価値を提供してゆくのだ。その頃にはキッカケとなったが会ったこともない見ず知らずのわたしの存在など遠い記憶の彼方だろう。でもわたしの存在しない二者の間では、私が提起した議論を下地としてコミュニケーションがなされている。そうやってわたし自身はなんの印象も残さないが、メッセージだけが余韻として、業界の片隅にほんのりと漂っている。

最近はそれもそれでいいと思い始めている。誰からの目も行き届かないところで、独り七転八倒を繰り返し、挙句の果てに酸素マスクから空気が漏れて人知れず絶命しても、誰もその存在を気に留めることもない。そういう孤独な自由も案外楽しいものだ。わたしのクレジットが完全に風化した原稿が人知れず渡り歩き、人口に膾炙する。皆あたかも自分が初めて考えついた着想かのように、わたしの主張をドヤ顔でトレースして他者の支持を取り付ける。そんなさまを妄想し、一人ほくそ笑む。今後も著作権フリーの良質な原稿をセコセコと書いていきたい。