un deux droit

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出汁をスメと呼べるほど染まってはないけれど

今日は妻が早朝から東京ヘフライト。妻が転職で新しい会社の本社に顔を出すためだ。駅まで送り届けて妻と離れると、ここ数週間、妻の転職にまつわる不安に寄り添ってきた疲れがどっと溢れてきた。自分はこんなに神経張ってたんだなあと今更気づく。

今日は敬老の日ということで義母を連れて回転寿司に行く。そしてそのまま義母宅へ子どもたちを押し付け、一人帰宅。身体がきつい。体温を測るも36.4度のド平熱。これら完全に精神的なものだ。とりあえず布団に突っ伏し昼寝をする。

1時間もすると急にどっと寝汗をかきはじめたので起きる。完全に自律神経が狂ってる。フラつきながら、妻から命じられていた家具の組み立てと、洗濯物干しを始める。いよいよ気分が良くないのでここは荒療治だとランニングの準備をする。

走り始めると、身体は重たく足腰が痛む。走るのは一週間ぶりたが、バテるのが早すぎやしないか。1キロ走ったあたりからすでに汗が止まらない。運動で鍛える分より老化で衰える分が大きくなっている気がしていやになる。

頭の中では、一週間で身体に溜めた毒素を老廃物として滲み出させているシーンを想像する。一歩踏み出す事に、毛穴という毛穴から汚れを絞りだし、衣服に吸い取らせる。足を止めそうになるたびに、まだ絞りきっていない、もっと奥の汚れもかきだせと、マヨネーズの最後のように執拗に絞り出す。それでも走れたのは5kmが限界。吐きそうでふらふらになりながら帰路につく。

残りの汚れは熱い風呂に入って溶かしだそうと考え、シャワーで汗を流したあとは湯船にお湯を溜める。溜まり切る前から湯船に寝そべり、水面が徐々に上昇する感覚を太ももの裏や背中で感じる。もう一歩も動けない。このまま意識を失って、口元まで水位が上昇して溺れてしまえと投げやりな気持ちになる。脳内ではミスチルのシーラカンスが流れている。排水溝のずっと奥深くに潜むシーラカンスに、連れてってくれないかと懇願する。首元までお湯が溜まり、後頭部を湯に浸す。しかしどれだけ脱力しても湯船が小さくて足がつっかえ棒の役割を果たし、我が身を溺れさせることは叶わなかった。徐々に正気を取り戻し、シーラカンスはどこかに去ってしまったので風呂から上がる。

身体を拭いていると、なぜだか猛烈にうどんが食べたくなってきた。いてもたってもいられず、近所のうどん屋に車を乗り付ける。ごぼ天にワカメトッピング。それからかしわ飯。

スープを一口啜ると猛烈に美味い。老廃物を絞り出しすぎてカラッカラになった細胞の一つ一つにダシが注入されてゆく。ここに来てようやく生きる活力が湧いてきた。身体が完全に九州人になっている。

東京にいた頃は一人の貧乏飯といえば松屋の牛丼で、毎回家畜小屋に突っ込まれたような惨めな気持ちを味わっていた。ところが福岡ではチェーン牛丼屋の役割をうどん屋が果たしている。それでいて牛丼屋に特有の悲壮感や罪悪感がない。一軍のメシがたまたま安いだけという感覚になる。ちなみに上記注文は合計700円なり。物価高騰のためにより価格破壊感が増している。

結局お前は何が言いたいのかって?福岡で最も美味いのはうどんだってことだよ。