un deux droit

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そんな朝が僕は好き

今朝、妻がおよそ12時間ぶりに起きてきた。前々日に夜更かししたのが祟って、昨日の夕方からダウンしていた。こんなことがなくても子どものお迎えと夕飯と皿洗いとお風呂掃除とお風呂の付き添いとドライヤーと歯磨きの同伴と寝かしつけは普段からやっているので、ワンオペになったくらいでなんの支障もなく過ごした。

「夜更ししたくらいで、こんなに体調崩すとはね。」

妻はそう嘆息した。学生の時は研究、社会人になってからも開発で完徹する生活を長らくやってきた妻としては、無理が効かなくなってきた身体の衰えが受け入れ難いらしい。私には理解のできない境地だ。

その後、妻が生理や出産の苦労話をして、男がいかに脳天気な存在かという説を滔々と述べている間、私は唐突に男児と女児の見るアニメの性質の違いについて発見をしていた。

男が好きなアニメはドラゴンボールや幽☆遊☆白書、ワンピースなど、自身の肉体が突如として強化されるタイプの物語だ。そしていざ一度変化してしまったら、自分が育った環境から飛び出しておいそれと帰ってこない。それは、そう容易に変化できない自分自身の願望を投射したものだ。対して女の好きなアニメの代表作プリキュアを眺めていると、変身はするものの変身前と後で対して強くなった感じがしない。コスチュームはペラペラでなんの防御力も高まらない。いいとこ魔法のステッキで特殊な力が使えるくらいのもんだ。

男の変化が縦なら、女の変化は横滑り。肉体自体は何も変わらない。そして変身する能力を手に入れても、変身していない間はそれまでの日常生活を継続している。日常と非日常が重なり合っているのだ。なぜ女の好きなアニメで発生する変化が化粧をちょっと変えたとか、衣装が少し派手になったとか、その程度のことをワーキャーいうのかを考えてみたところ、そういう劇的な肉体の変化は、どうせ妊娠出産すれば実際に経験するのでたいして憧れもしない、ということなんじゃないかと思った。妻が「男は能天気」と鼻で笑ったのは、肉体の劇的な変化が実際にどのような負担を味わうのか、ろくに想像もできてないくせに、劇的な変化だけを望んでいるように見えるからだろう。

そんな妄想を独り楽しみながら妻の話を話半分で聴いていた。斉藤和義の「やわらかな日」が脳内のBGMに流れていた。

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