un deux droit

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全幅の信頼を「依存」と切り捨てる妻

正月は妻の実家で過ごす。義兄家族と去年の元日ぶりに再開し、子ども達はいとこ同士のじゃれ合いを満喫する。

義兄は年を追うごとに人柄が柔和になり、子ども達のあしらい方、楽しませ方も年々スキルアップしている様子だった。最初に出逢ったときは、大学中退、借金の前科あり、酒癖悪し、というマイナス情報を妻から植え付けられていたのであまり信用しないよう警戒していたのだが、それから約10年の間、地場企業でこつこつと仕事をこなし、同僚からの信望も厚く、中間管理職として着実に社会的地位を確立。中古のマンションを手堅く購入し、離婚沙汰になることもなく、安定した暮らしを送っていた。

もちろん昔は彼にも年相応に思春期、反抗期があったのだろう。しかし、その荒れた一時期をもってして、彼の全人格を決めつける妻の態度も極端だなと感じた。未だに喫煙者だし、ソシャゲに興ずる姿を臆面もなく晒す幼稚さが幾分あるものの、概ね立派な社会人として生まれ変わったわけで、その変化は変化として認め信じる姿勢というものが親族としてあってもいいと思う。

私が客観的に見て、義兄が身を立てることができたのは、奥さんの存在が大きい。多少の愚痴や陰口を謂うものの、それはすべて冗談の域を超えず、根本的には夫を信頼している。その信頼には特に根拠がない。もう信じると決めた、一蓮托生だ、という割り切りがある。もともと他人にも関わらず、無条件で自分の存在価値を証明してくれる。どんな苦境に立たされても、この人だけは最後まで私の味方。そんな信頼を寄せてくれる人とパートナーになれた義兄は、精神的に揺らぐことがなくなったのだろう。


子どもたちが勉強している横で献身的に付き合う義兄。その姿を見て妻が「兄ちゃんが子どもの勉強に付き合ってるのが信じられん。方程式とかわかると。勉強なんてまるでしとらんかったやない」と頭ごなしに馬鹿にした態度をとる。しかし義兄は鷹揚として受け止め「俺が家で勉強しとらんかったのは授業聞いてれば大概のことはわかっとったとよ。地頭はおめえらが思っとるのよりすっと賢いっちゃ」といなす。義兄の奥さんも「私バカやけん、上の子がつまづいた問題全然わからんかったんやけど、ひーくん(義兄)がちゃんとつきそって答えまで導いてくれたんよ」と義兄をフォローする。義兄は得意な顔をして、ウンウンと肯く。それでも妻は「いやーありえん。ゲームしかしとらんっちゃったっちゅーのに」「まぐれやろ」と自分の彼への評価を頑として変えず、ダメ出しを執拗に続ける。義兄は意に介さず手酌で酒をのみ楽しんでいた。妹が何をどう言おうと、自分には妻という存在証明を発行してくれるシェルターがあるからどんな口撃もダメージにならない。そんな感じ。

義兄がかつてグレていたのは、妹である私の妻の影響もかなり大きかったのではと疑う。妻がとる、兄の存在価値を低めようとする終始一貫した態度は、後ろ支えを持たない人間にはかなり傷つくものだと思う。高校から特進コースで、早々に海外留学し、名のある会社に就職を決め、一直線に成功へ盲信する妹に、小馬鹿にされ続ける兄の所在なさを想像すると、痛み入ります、としか言いようがない。兄は兄で突き抜けたものはなくとも人並みには賢かったと思う。しかし常に妹と比べられ、妹ばかりがチヤホヤされ、当の妹もその評価を当然とみなして憚らない。残酷な話だ。兄をつまらぬものだとみなし続ける妻の態度からそんな日常を想像させられた。ほんと義兄は良い人と結ばれたと思う。

そしてそんな人をパートナーに選んだ私は、かつて義兄が苦しんだ針のむしろを追体験している。自分の存在価値は自分で証明しろ、あなたとの関係は条件を満たさなければいつでも解消できる、と平常時でも口癖のように、「信頼はしてないよ」というメッセージを、妻は発信し続ける。人間関係は鏡だというので、自分は妻を信頼している、というメッセージを発信し続けてきたが、妻は「私が信頼できるのは当然。それは私自身が一番わかっている。あなたから認めてもらう必要ないから黙ってて」と突き放す。鏡はバキバキに割られている。義兄の妻は、自分で稼ぐ能力がないから義兄をヨイショしてるだけ。弱い人同士が相互依存しているにすぎないのよ。帰りの車中でそんな寂しいことを言い捨てる妻に、家族を持つ必要性があるように思えない。