un deux droit

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かすがいだけを凝視する

拭えぬ疲労感。土日も離婚寸前まで口論が深刻化したが、じゃあ子どもたちと離れられるかというと、もう分かち難い愛着が互いに形成されてしまっていてその選択を取れない。そのことを率直にこぼすと、妻は私がそこまで子どもに強い絆を感じているとも思っていなかったようで、急にトーンダウンし物事が和解へ進む。

メカニズムはよくわからないが、妻はもはや子どもを慈しむためだけに生存している機械となっていて、子どもに貢献するものはなんの感情も抱かず摂取し、その逆は排除する、という単純な判断基準で生きているのだということがわかった。口論のすべては言いがかりで、「私の産んだ子どもに己がすべてを捧げると誓え」ということだけが言いたいことだったようだ。

そんなことも知らずに、解けない知恵の輪をガチャガチャ振り回していたらたまたま簡単に外れてしまったような呆気なさ。なにか根拠のないことで妻は私の子どもに対する愛情を疑い、私はただその疑いを否定するだけで良かった。

でも私は、私の子への愛情は当たり前過ぎて疑われていることが分からなかった。証明する必要を感じなかった。妻もその疑いを言語化できなかった。私はお前の子への愛情が疑わしいと。私は妻への愛情が疑われていて、それは確かに醒めていたけれど、妻はそもそもそんなもの欲していなかった。私は子どもを心の底から可愛がっている様を妻に見せるだけでよかった。それなのに妻の機嫌を取ろうとキョロキョロして、そのせいで子どもへの意識が疎かになっていると映った。なんて馬鹿馬鹿しいのだ。妻は子どもしか見ていないので私も遠慮なく子どもだけを見ることにする。