un deux droit

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小学校で得られる学び

本日は授業参観。平日ということで、まだまだ圧倒的に母親の参加が多いが、形見の狭くない程度には父親の姿がいた。1教室に2〜3人程度。

自分の幼少期と比べて、授業参観の頻度がめちゃ多い気がする。2ヶ月に1回ペース。年1回とかじゃなかったっけ。これとは別に個人面談もあるし、PTAの会合もちょこちょこある。町内会にも父母会があり、その会合への参加もリクエストされており、生真面目にやっていたら予定の調整になかなか時間がとられる。まっとうなサラリーパーソンだったらやってらんないだろうなぁと思う。

今日の授業は国語。漢字の部首の概念を学んでいる。先生の話を聞いているときは、みな後ろ手に組んで姿勢を正している。グーとパーの挙手があり、授業中にまだ当てられていない人はグー、1回当てられた人はパーという符号を発信している。発表の時は「発表します」と言ってから発言し、かならず「皆さんどうですか」と問うところまでセットされている。ギャラリーは「同じです」「違う答えです」「ほかの答えがあります」のいずれかを発話する。思いのほか軍隊的で、教育というより調練という感じ。これが福岡流なのだろうか。

授業の中では、共通する部分を持つ漢字の仲間をグルーピングする授業をしていた。「右」と「石」なら「口」、「学」と「字」なら「子」、「町」と「男」は「田」、「目」と「見る」は「目」、という風に。大人ならまぁそういうもんかと思ってさらっと流すけれど、子どもの素直な感覚なら、どこを共通部分と捉えるかはいろんな解釈があるだろうなと思った。案の定、「右」と「石」は「口」が一緒なのではなく、「石」まで一緒だと言う子がいた。「学」と「字」なら「字」まで一緒だと言う子もいた。実際にはいなかったけど、「目」だって「口」が3つ、「田」は「口」が4つで全部「口」の仲間だなんて言い張ったり、「一」の横棒なら全部あるぞとまぜっかえすやつがいてもいいと思う。「会」「合」「今」なんかだと、屋根の部分までが一緒なのか、その下の「一」まで一緒なのかという話をしたら、正解は屋根の部分だけだけど、感覚的には「一」まで一緒の方が正しく見える。

こういう時に脱線して漢字の成り立ちから話し始めて、実はこれとこれは全く違うものを表現しているんだよという授業になればとても面白い。でもその発見について、先生はちょっとめんどくさそうにして、一旦今日は「口」と「子」が同じということにしようか、と受け流した。

おそらくだけど、「一旦」と言いつつ、その発見や疑問に対して改めて議論する機会は永久に来ないと思う。あの子たちの発見はここで死んだ。そして独自の着眼点を持つ意欲は徐々にそがれていく。統制のとれた立ち振る舞いを叩き込むより、決められた教育課程をすべて「こなす」より、小さな発見を面白がってあげて、一つ一つ向き合うことの方が大切だと思うのだけれど、そんなことを公立小学校教員に求めるのは酷か。この授業で彼らが学んだことは、漢字の部首ではなく、「一旦」という言葉の本当の意味だったりして。そんなくだらないことを考えていたら45分があっという間に過ぎた。