un deux droit

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妻に知る 外国人との 会話術

今週のお題「575」

長い長い土日が終わった。
昨日の反省を活かし、妻の妄言はこちらの言い分を言わずに全肯定。何度かの言いがかりをうまく凌げた。睡眠をよく取ったのが効果的だったように感じる。寝不足は寛容度が落ちるから大敵である。

最近の悩みは髪の禿げ具合と、自己研鑽の不足である。髪の問題は、シャンプーを流したときにこんなに地肌見えるのかと毎回驚くレベルになってきた。M字というより凹字のように、薄いゾーンが容赦なく広がっている。おそらく妻との生活のストレスが主因だが、原因がなんであれ生活習慣で毛量が改善することはなく、高額の治療が必要なのでもう諦めている。私の敬愛するフェデラーナダルが、いくら金があっても薄毛を放置しているので彼らの姿勢に勇気をもらい天命を受け入れようと思う。

自己研鑽については、子どもが成長するまでしばしの辛抱である。特に意味もなくコンプレックスに感じているのは英語力。菅総理がG7で各国首脳と満足にコミュニケーションを取れずぼっちになってるのを見ると、我が事のように恥ずかしくなる。たとえ国内の狭い理屈の上で偉くなっても国際社会では張り子の虎である。自分にそんな機会(危機)が訪れることなど万に一つもないのにそういう能力だけは保有していたいという謎の憧れがある。
受験英語だけに最適化して勉強してきた私が大学に入ってようやく理解したのは、言語というのは他者とのコミュニケーションツールだということ。何を当たり前のことをと思うかもしれないが、高校卒業するまで一度も英語をコミュニケーションツールとして使うことがなかったのだから仕方がない。クソ田舎では本物の英語話者が存在しない。だから何のために英語を学んでいるのか本当の意味で理解することはできない。
大学に入り英語話者がゴロゴロいて、英語でなければ意思疎通できない、という状態になって初めて「自分の気持ち・考え」を英語を使って伝達する、という作業をした。受験英語は全く機能しなかった。なぜならば、複雑な文法や単語を無数に知っていても、肝心の「相手を知りたい、相手に知ってもらいたい」というマインドが醸成されていなかったからだ。まず日本語でも言いたいこと・聞きたいことが特にない。どれだけ英語の知識があっても、無言を英語に翻訳することはできないのだ。結局、まず陽キャであることが前提条件で、次に英語を話すこと自体の恥ずかしさの克服、伝わっているかどうかの不安感の克服があって、文法や単語選びの巧拙は二の次なのである。

菅さんを見てると、重要な立場を得て本当に英語力が必要になってからでは英語を上達させるための時間を取ることは困難なのだなと思う。(単に意欲がなかっただけなのかもしれないが。)ただし、英語の知識よりもマインドの方が重要で時間がかかることがわかっている今となっては、家の中で妻という外国人と日々ナックルトークでマインドを鍛え上げてもらっているので、いざ英語が必要になったときには、コミュニケーションの下地は十分にできているのではないか、知識の復元だけでいいなら意外と時間はかからないのではないか、と思っている。妻との身を切るような殺伐とした会話はいつか何かの役に立つかもしれない。そう固く信じて妻の存在に感謝するのであった。