un deux droit

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コーヒーを淹れるのを忘れた

排卵日なのか、土曜あたりからずっと妻の機嫌が悪い。土曜の夜は長女に対してブチ切れ、日曜夜は家事を手伝おうとしたら「自立した人間は手伝ってほしい時はそう言える。依頼する前に介入されると仕事を取られた気になるのだ。」と朝の3時まで説教。月曜日は「あなたが自分の欲求を押さえて表明しないことで一緒にいると息が詰まる。私が好むか、嫌がるかといった基準で自分の行動するしないを決めないで」と24時まで文句を言われる。今朝は「○○をしたんだよね」という妻の発話を、「あなたはちゃんとやってくれたんでしょうねぇ?」という圧力込みの誘導尋問と受け止め「自分はそれをやっていない」と答えてしまい説教。(妻は「私が昨日○○をしたんだ」という報告、あるいは独り言を言っていただけで、その主語を省略したに過ぎなかった。)

私は何かにつけて妻の言動に神経過敏になっていて、それがまた妻の神経を逆なでする。常に妻の様子を伺い、虎の尾を踏まぬよう慎重に生きている私の様子がどうにもくつろいでいるようには見えず、家族で過ごす時間を楽しんでいるように思えない。何か妻のためにすることもすべてご機嫌取りに映る。妻の指摘はごもっともで、今は家にいて家族とともに過ごす時間を全く歓迎できていない。子ども達の奔放な言動も、何かのいさかいの種になりやしないかとひやひやしている。「私と過ごす時間を楽しいと思えない人と一緒にいたいわけがない」と口論の最中に妻から言われたが、本当に楽しくなくて図星なので、そんなことないよと否定することができなかった。それがまた妻の怒りを増幅させた。

昨日の夕食の後、風呂が沸くまでの間、私は自分のためにインスタントコーヒーを淹れた。小言のシャワーでささくれた神経をとにもかくにも鎮めようと、半ばドラックに依存するようにがぶがぶと飲んだ。妻が2階に干した洗濯物を取り込んで1階に降りてきたとき「えー、自分だけずるい。一緒に作ってくれてもよかったじゃん」とへそを曲げた。自分も本当にそうするべきだと思った。「ごめん、もう風呂も沸いて子ども達とすぐ入ると思って」と間に合わせの言い訳を告げたが、内心では本当に妻という存在が頭からすっぽり抜けていたというか、コーヒーを淹れてあげたい、という感情が全く作動しなくなっていた。「コーヒーなんか淹れてやるもんか」という反発する気持ちがあればまだ相手を意識しているだけまし。その時はもう「世界に自分ひとりだけ」というくらい暗くて狭い世界の中にいて、自分の手元のケトルとカップしか見えていなかった。時間にして5分ほどの意識の欠落がある。あぁ、自分は結構やばいかもしれないと背筋の冷える思いをした。

今となっては、皆が寝付いた後、一人寝室にこもれる時間が唯一安息の時だし、何の兆候もなく鼻血や血便が出るし、対人関係でごく一般的な気遣いや優しさを向けられても、当然のものとして気持ちよく受け取れない。だれも自分に優しくする義理はないし、誰も自分の優しさなど必要としていない。そんな気分にずっと浸っている。脱却する見通しは今のところ立っていない。