un deux droit

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表面上の和解

昨日の口論は3時間。夕食を摂り始めた19時から22時までずっとだ。
議題は「褒めてくれない」件。妻が自慢した事柄についてもっと共感を示してくれないと虚しい、という主張だった。
子どもも何日も連続でほったらかされて、いい加減飽きている。

何でそんなに毎日不満ばかり言うのか、と不意にこぼすと、「別に不満はない」との妻から意外な回答。

「お互い他人同士なんだから何を嫌と思うかなんて違うに決まってるでしょ。だから全部言ってるの。共感してもらえそうなことだけを言うのではなくて、自分が嫌なことは客観的な妥当性なんかは構わず言うの。だから指摘する前からそもそもそんなことを起こさないでくれなんて頼んでないし、そのことを起こすあなたの人格を否定しているわけでもない。お互い相手に悪意があるわけでも、相手に害をなして自分が得しようと思っているわけでもないことは自明のこと。他人と同じ空間を過ごすということはそのつもりがなくとも否応なく衝突するものなの。だから衝突そのものを避けて、起きないよう努力するのではなく、衝突は日常的に起きるものと諦めて、起きてしまった時に速やかに淡々と処理するだけ。」

つまり、人が何で傷付くかをあらかじめ予見できないので、人を傷付けないように神経を使いながら生きて行くのは無駄だということ自分がされてもなんとも思わないこと、むしろ嬉しいと思うことを「されてムカつく」と思う人もいる。その人の気持ちはその人の価値観にとっては合理性がある。でも価値観を一にする他人など存在しないのだから、人にとって他人の怒りはいつだって不合理だ。隙あらば人を傷つけてやろうと思って生きているわけでないのなら、堂々と自分の価値観に沿って合理的だと思う行動を取れば良い。それが他人にとって思わしくないものだと表明されたら。「あらそう、失礼」としなやかにかわせば良い。真に受ける必要もないし、真に受けることなどそもそもできないのだ。「私の行動の一挙手一投足が気に食わないなんてそんなに私他人にとって有害かしら」と気に病む必要はない。文句をつけてくる妻は私のことなど眼中になく、文句がある事象しか見ていないのだ。

なお、「『人を傷つけている』とあなたから言われ続けることに傷ついている」という主張は受け入れてもらえないようだ。いつでも被害者は妻で、加害者が私。その構図が固定されていることに傷つくんだけどなぁ。


『人を傷つけることに 目を伏せるけど 優しさを口にすれば 人はみな傷ついていく』

今日は尾崎のこの歌詞について思いを馳せて残りの時間を過ごそうと思う。