un deux droit

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「普通」でいることの意味

来年には日本全体で空き家が1000万戸を超えるという記事を見た。

www.nikkei.com

そんなタイミングで私たち夫婦はおもくそローンを抱えて戸建てを建てた。
常軌を逸していると思う。

けれども、常軌を逸していたのは今に始まった事ではない。

そもそも妻という存在が常軌を逸している。
普通の人が気にならないことを気にし、怒らないことで怒り、目指さないことを目指す。
そういう態度や言動を10年近く「それは一般的に言っておかしいよ」「そんなこと普通は言わない」と度々諫めてきたが、なんら効果はなかった。
どれだけ世間の人間がAだと言っても私がBだと思ったらBという鉄人スタイルを貫く妻は、中国共産党の元に生まれていたらとっくの昔に処刑されていただろう。まったく多数派に迎合しない。

私は私とて、そんな妻を選び婚姻生活を維持していることが常軌を逸しているし、累計2年近くの育児休業、定時退社、飲み会を全ツッパしてアルコールを摂取しない暮らしを続けている。クソ田舎から誰も行かない難関大に行ったことも、それでいながら中小零細企業を選んだことも、人生の選択のいちいちで逆張りしているひねくれ者だ。そういう少数派と少数派の掛け合わせだからこそ、ほとんどの家庭が選ばなくなった一軒家持ちという選択にベットできたのだ。今更周りをキョロキョロして無難で穏当な選択を選べるような人生ではない。ビビらならばもっと手前でビビるべきだった。

普通である、というのは中央値の人生を送る、ということだ。中央値的な暮らししかできない、と言い換えても良い。普通を逸脱しないことが中央値的な暮らしを保証するものであるということは今も昔も変わらない。けれども、その中央値が暴落した2022年現在において、普通を逸脱しないことにどれほど価値があるのか甚だ怪しい。常軌を逸した妻と常軌を逸した生活を送るのは苦しいことだけれども、その価値を信じて今日も小言のシャワーを甘んじて浴び続ける。