un deux droit

このブログには説明が書かれていません。

使われない公園の意義

今朝は自治会の公園清掃に出向く。住人は清掃するか300円払うかを選べる。掃除は月1回。日曜の朝8時にこれこれの公園に集合、という以上の情報はなく、とりあえず子どもを連れて手ぶらで向かった。何かしらの装備が必要で、それがなくてまるで役に立たなくとも子ども達がいれば何となく角が立たずに済むだろうという打算もあった。

公園に近づいていくと、地域住人たちが方々の道から出現しだした。普段ひっそりとしているけれど、こんなに住人が多いのだなと驚く。新参者なのでこちらからペコペコと挨拶して回る。

住人を観察すると、皆一様に軍手をはめ、人によっては鎌を携帯している。何だか本格的な作業をするのかなと不安になる。すると誰の掛け声もなく各々が黙々と草むしりを始めた。面食らっていると、我が家の他に子連れの家族が遅れてやってきて、素手で簡単に抜ける草を抜き始めた。その家族に倣って我が家も草を抜き始める。5分ほど格闘していると住人の1人がゴミ袋をもって巡回し「ご苦労様です」と声を掛けてくる。ゴミ袋に抜いた草を捨て、とりあえず参加者に期待されていることは達成しているらしいことに安堵する。

20分ほど経った時に、また誰の掛け声もなくポツポツと住人は帰り始めた。まだ公園の草は4割ほど残っているが、別に構わないらしい。どこまで綺麗に整備するかより、一定の時刻だけ集落の環境整備に関与した、というスタンプを捺すことのほうが大事らしい。誰も使っている様子のない公園がずっと使われ続けない理由もこれでよくわかった。放置しすぎて草木が生い茂り死んだ土地にならない程度に共有地を維持することができれば御の字で、どちらかというと住人たちがそれぞれの息災を寿ぐことの方が目的なように感じた。

市や県が整備して遊具の充実した公園は近所にいくつかある。そんな中、子どもたちにとって全く魅力的でない、間に合わせのすべり台だけが一台あるような公園が、住んでいる地域に点在していることに少し違和感を覚えていた。でもこの空き地は、定期的に住民が集うための名目として必須の存在だった。自分の地元でも、誰もありがたがっていない文化財や、古びた地蔵の清掃を地域でやっていたが、特段先人達に敬意があるわけでも、信心深いわけでもなく、地域住民の接着剤としての機能を果たしていたのだ。全ての物事に強い意味があって余白のない社会はきっと息苦しい。そういった「弱い意味」がまばらに散らばる社会にこそレジリエンスがあるのだろう。そんなことを感じた朝。