un deux droit

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お盆音痴

お盆の過ごし方がわからないまま、今年も終わってしまった。

幼少期は墓参りに行って、「本家」と呼ばれていた父方の実家に行ったりもしていた。しかし、私が物心つく頃にはすでに祖父母は鬼籍に入っており、実物に会った記憶のない人の墓だと言われ、とりあえず習慣として手を合わせていた。形式だけを踏襲しても、私の心に祖先を思う気持ちは定着しなかった。

「本家」へ顔を見せに行くというのは、父の兄家族の家にお邪魔する、といった格好になっていたわけだが、祖父母のいない実家というのは分家にとってもわざわざ日取りを合わせて親族一同に会すという義理もないわけで、各々の家庭が好き好きのタイミングで来たり来なかったり、という締まりのない集い方をしていた。

父と父の兄は10歳離れており、さらに父の結婚が30代も半ばになってからということもあり、従兄弟とは10歳以上の差があった。そのため仲良く遊んだ記憶がほとんどない。そんなわけで、親族づきあいとは如何なるものでどんな扱いを受けるのか、それぞれの立ち振る舞いはどのようなものが求められるのか、という経験が丸ごとすっぽり抜けている。大皿を囲んで酒席に興ず、という光景はTVでしか見たことがない。一般的な家庭ではお小遣いをもらってみたり、いとこから普段しない遊びを教えてもらったり、みたいなことがあるんじゃないかと思うけれど、それも想像の域を超えない。

そんなわけで、学生時代になって一人暮らしを始めると、「お盆に帰る」という帰巣本能が働かなくなってしまった。以来、お盆と、ついでに正月も、実家に寄り付かない人生を歩んでいる。実家が北海道ということもあり、道外に出てしまうといちいちとんでもない旅費がかかる、というのも足の遠のく原因となっている。何でわざわざそんな高い金を払って、大した行事ごとが催されない地元に帰る必要があるのか。高校の同級生と大学生時代の年末に札幌で遊んだときに、「あんどうは帰省しないのか、親不孝者め」と罵られたのだが、その意味するところがあまりピンとこない。盆暮れ正月に足並みを揃えずとも、6月とか10月とか、なんでもない普通の土日ふらっと1泊帰ったりはしていた。それで十分じゃないか、と思っていた。

独り身の身分であればそんな体たらくで良かったのだが、結婚して子どもができてからそのツケが回ってきた。今までは上の子が保育園児だったので、両親とも仕事があるということにして預けることができた(実際に仕事をしていた)。けれども、長女は今年、小学1年生。保育園と違って、学童は利用者がぐっと減る。お盆休み周辺になるとなおさらだ。しかも子どもたち同士で「じぃちゃん家に泊まりに行く」だとか「ハウステンボス」「USJ」「杉乃井ホテル」といったワードが飛び交うようで、娘から「夏休みはどっか行かないの?」とやんわりと詰られる始末。妻は海外暮らしが長く、全く気にする様子もなくカレンダー通りに働き、海外との仕事をこなしているようだが、私はなんとなく子どもの生育によくないのではという気持ちになったので、1日だけでも夫婦の休みを合わせて取ろうと提案した。そして、近場のショッピングモールに足を運び、映画を見たり、洋服を買ったりしてお茶を濁した。子ども達ははしゃぎまわって満足気だったが、本当にこんな過ごし方でいいのかは自信が持てない。

帰りがけに寄ったスーパーで、食料品コーナーに並ぶ惣菜のオードブルと、それをたんまりと買い込む家族の列を見て、日本の一般的な家庭が過ごす「お盆」の姿を想像した。申し訳程度に、焼き鳥のパックとステーキ肉を買い、想像のパッチワークでお盆休みを偽装してみた。「守破離」とはよく言ったもので、「守」が無ければ何が「破」で「離」なのかもわからない。一般的な家族を盲目的に追い求めて彷徨う2022の夏。