un deux droit

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知床事故に見る北海道民の宿痾


知床遊覧船の痛ましい事故のことが、ここ数日頭から離れないでいる。

事故の凄惨さもさることながら、登場人物の会話・応答の過度にも思える朴訥さに、元道民として着目してしまう。

運航会社の社長だけでなく、インタビューに応じている元従業員や町民の証言など。起承転結が曖昧で話の着地点が見えない。

「〇〇は××だから…」で文章が尻切れになり、「△△である」という自身の結論を明言しない。事実の列挙ばかりして、そこからの考察に踏み込まない。主張が常に未完成で、それでも会話が成立しているように見える。文脈が読み取れるもの同士の省略話法。これは道外の方からすれば違和感があり、説明不足である、何か後ろめたいことを隠蔽しようとしているのではないか、と疑念を抱かせるのではないだろうかと思う。でも恐らく持っている情報はあれが全てで、その伝える技法・文化が独特なのだろう。

非札幌圏の道民は他県の人からすると相当にコミュニケーションを嫌っているように映るお国柄を持っていると思う。そしてそのことを自覚していない。田舎道民がコミュニケーションと思っているものは他県ではコミュニケーションの水準に達していない。田舎道民の会話を他県の人が観察すれば、ほぼ誰とも意思疎通ができていない独り言の応酬に映るのではないだろうか。

高校卒業後、東京の大学に進学した奴らが、せっかく都会に出たのに止まらずらこぞって卒業後に地元へ帰ってきたことを長らく訝しく思っていた。しかし、それはコミュニケーションの「過剰さ」に憔悴しきったからではないかと今では推察する。私も日々、ここまで言葉を尽くさないと話って伝わらないものかと苦労を重ねている。「皆まで言うな」「皆まで言わせるな」という苦痛を日々味わっている。阿吽でわかる、あるいはわからなくても構わない、というコミュニケーションの覚束なさをちょうど心地よいと感じるのは田舎道民の奇習だ。

このままでは他県の人と仲良くなれないし、衰退にも歯止めが効かないだろう。物事を好転させるためには綿密なコミュニケーションを執拗に繰り返す必要がある。その気持ちの持続力が欠けている道民は残念ながらかなり多いと思う。

このことが今回の事故のような取り返しのつかない悲劇の通奏低音として鳴り響いているように思えてならない。そうでないとあの悪意のない杜撰さの数々の説明がつかない。