un deux droit

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「他言語を操れる」ということの意味するところ

時折、発作的に英語を勉強したくなることがあるのだけれど、それはきっと単なるコンプレックスで、実生活において英語が使えなくて困ることなど何一つない。最新のニュースや論文が原文で読めなくても影響のない凡庸な人生である。

英語が使えなくて悲しいなと感じたのは学生時代、勢いで1ヶ月ほどオーストラリアへ貧乏旅行にいった時のこと。ミスチルにハマっていた私はtomorrow never knowsのPVロケ地であるグレードオーシャンロードに行ってみたくて、アデレードに足を運んだ。
そこのバックパッカーズホテルで最初に話しかけてみたのがシンガポール生まれのイギリス人を名乗る少年。見た目は明らかに白人なのになぜシンガポール生まれなのかわからないほど私は無知だったけれど、一緒に海岸まで遊びに出かけることに成功した。
カタコトの英語でもなんとなく聞き取れて、雰囲気で笑い合える。こうやって見ず知らずの土地で出会ったことのない国の人と気軽に仲良くなれるなんて海外旅行できてんじゃん、と思いあがったのも束の間、彼は突然「帰る」と言い出した。私は一瞬意味がわからなかったが、しばらく経ってから思い返すと、いちいちなんでも一発で聞き取れず一つ一つ聞き返す私の会話の拙さに嫌気がさしたのだと思う。向こうは英語ネイティブ。私に何か絶世の美女のような、存在そのものがインセンティブになるような要素でもない限り、負荷の多い会話を楽しもうとは思わないだろう。
しばらく経ってからホテルに帰ると、例のシンガポール人は他の白人たちと卓球をやりながら会話を楽しんでいた。こちらを一瞥したが、特に関心を示す様子もなく、その後一度も会話を交わすことはなかった。

日本語で日本語話者と話をしていても話が通じないなと感じることは本当に多くある。何回か会話をラリーして「コイツは話せるな」と思えた人とのみ関係を深める選択ができる。この「コイツは話せる」かどうかがわかるというのがその言語をマスターしていることの証左なのだろうと思う。
シンガポール人との会話は通じているか通じてないか自分にははっきりわからなかった。一方的に打ち切られてはじめて、おそらく通じなかったのだろうと後から類推するしかなかった。自分からはこのシンガポール人が「話せる奴」かどうか判断する手がかりを、数回の会話のラリーで手繰り寄せられなかった。
これは単に会話の巧拙だけではなく、間合いや仕草など非言語の部分の波長が合うかどうかという問題でもある。しかしその間合いや仕草にどんな意味が含まれているか、あるいはどんな意味と受け止めるかというのは英語話者として何年も生きていかないと身につかない感受性だと思う。これではいくら受験勉強で英語を学んでも使い物にならないわけだ、とお手上げ状態になった。
自分にとって波長の合う人間はどういう性質を持っているのかという受容器官を持たず彷徨して、他人から勝手に品定めされるだけの日々はそれなりに屈辱的だった。自分からも「気の合うやつだ」と思いたい。「私ってあなたと気の合うやつなんでしょうか」と自信なさげに上目遣いしている状態から脱却したい。何日かはそんな不確かな人間関係に欠乏感を覚えて過ごした。

数日後、韓国人の男が同じホテルに宿泊してきた。彼は流暢な日本語で臆面もなく話しかけてきた。「今日カラオケいこーぜ」
その韓国人は他の韓国人の女2人をどこからか連れてきて、4人でカラオケを楽しんだ。女2人もカタコトだけど日本語が喋れる。同じ語学学校に通っているのだそう。男はリンダリンダを歌った。私が名もなき詩を歌うとめちゃくちゃ盛り上がった。なんかやっぱりアジア人だと落ち着くなぁと、英語圏にいることで慢性的に緊張状態だったことを初めて自覚した。その後男は日本人のダメ出しをぺちゃくちゃ喋るので、「コイツとは気が合わねーな」と思った。
これは彼の日本語力の高さゆえに判別できたことなのだから、日本語ネイティブの私にそう思わせることができるあたり、本当に彼は言語能力が高かったと思う。もちろん英語もペラペラ。全然好きになれなかったが、好きになれないという判定を相手にさせられるだけ、自分自身を他言語で表現できるというただ一点を、今でも尊敬している。

もしも英語が使えたら、全世界の人と友達になれなくてもいい、誰と分かり合えて分かり合えないのか、ということが分かるようになりたい。クリス・ロックが自分にとってイケてるやつなのかイケすかないやつなのかが動画を見て判別できるようになったら人生はもっと面白味が増すだろうと思う。

#もしも英語が使えたら

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