un deux droit

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青年期は人と比較しないことが大事

今日も普段と変わり映えのしない休日。長女が習っているピアノの教材を私の方が熱心にやり、徐々にピアノが弾けるようになってきている。ヤマハ恐るべし。高い教材費を払っているが、2枚分の費用と考えれば元は取れている気がする。「あなたを演奏を見ていると、いかに子どもの頃にピアノを習わせることが重要かよくわかるわ」という妻の失笑に動じない精神力はかなり鍛えられたので、構わず練習を続ける。

お昼ご飯は鮭の塩麹焼、卵焼、焼き茄子、かまぼこ、エンドウの水煮。明日は長女の学校が休みで給食の出ない学童保育に通わせるため、弁当が必要で、そのおかず作りも兼ねて。妻には粗食すぎると不評で、袋麺を追加してやる。

長女が自転車を練習したいというので公園に出かける。公園にはバスケットボールコートが併設されていて、ゴールの片側にはいかにも体育会系の筋骨隆々とした高校生の集団。見たところ皆180cm越えで、身体のバネが若々しい。ダンスでも踊るかのように軽々と滑らかに全身を躍動させ、鮮やかなゴールを次々と決めてゆく。佇まいはオラついていていけすかないが、増長するのもやむなしといった全能感に溢れている。

もう片方のゴールには、これまた高校生らしき集団。しかしこちらはことごとくイケてない。ヒョロヒョロだったり、既におじさん体型だったり。動きも緩慢で、手足の動き、上半身と下半身の動きがバラバラ。無駄な動作が多く、力みが力を分散させている。カッコをつけてトリッキーなことをやろうとしている様がよりダサさを際立たせている。

一面のコートに、決して交わらない二つの世界が展開されているのを見て、なんともむず痒いものを覚えた。あの年代くらいになるともはやいじめも発生しない。互いに眼中になくなる。あのダサい一軍に自分もいたんだよなぁ。中途半端な奴らで徒党を組み、イケてる集団のことを意識するほど視野は確保できておらず、ただ自分達の狭い狭い人間関係の輪の中が世界の全てと思い込んで、自分達なりの青春を夢中に、真剣に、消費していた。あぁやって変に人と比べることなく、むやみに自己肯定感を毀損されずに、自分たちなりの懸命さで青春を謳歌できれば、その慣性だけで、その後の人生なんとか生きていける。彼らには躊躇することなくそのダサさを遺憾なく発揮してほしい。童貞ソー・ヤング。それにしてもイケてる集団の肉体美はすごかったな。当時の自分は彼らのような人間を「脳みそ筋肉野郎」と蔑み、キャーキャーいう女どもを見る目ないわと罵っていたけれど、あれはあの年代特有の芸術作品ですわ。おっさんになってようやくわかる美しさ。自分も女だったらより美しいものを愛でたいと思うだろうな。

それにしてもあの時全く別の世界に生きていた2種類の人類はその後仕事を得てちゃんと混ぜこぜになっているのだろうか。普段出会うおっさんどもが、元々どっちの世界に属していたのか全くわからない。全部同じおっさんにみえる。ひょっとして今でも私はダサい族の人脈の中でしか生きていないのかもしれない。