un deux droit

このブログには説明が書かれていません。

譲るのは聞く側?話す側?

妻と会話が噛み合わない時、私は聞き手が話し手に歩み寄るべきだと思っている。

「ごめん、ちゃんと聞いてなかった」
「もう一回話してくれる」
あるいは、本筋ではなさそうな部分ならばわざわざ話を止めずに
「うん、うん」
と適当な相槌で繋ぐ。そして掴み損ねた話の周辺はその後の話の展開から適当に穴埋めして解釈する。話の前提がわからない時は「それって〇〇のこと?」と相互の認識を揃えるのは聞き手の役割だ。私の世界観では基本的に話し手が主役で、それは話し手が聞き手側の都合をいちいち考慮していたら注釈ばかりになって。いつまでも文章が完成しないためである。

しかし妻は聞き手が主役だと言い張る。聞き手が理解しやすいように共通の認識が持てる確証がない場合はできるだけ言葉を補うべきだ。
例えば、テレビを見ながら「すごい」「ウケる」みたいなことを私が言うと「何のこと?」「主語がない」とすぐイライラする。みんなで食卓を囲んでいるからと言ってみんながテレビを見ていると思うな、と。いや、それは聞く側がだいたい当たりをつけて「テレビかな」「子どもかな」と視線を走らせて、それで検討がつかない場合に「何のこと?」と聞くもんだろ、と私は思う。「〇〇ちゃんがこれができたのはすごい」「テレビのこれはウケる」みたいな文章をいちいち作ってたら間が悪くて仕方がない。小学校の教科書か。それでも妻は会話とはそういうものだ、みんなが何に意識を向けているかは自由なのだから言及する対象はいちいち特定しながら話すべきだと言って譲らない。

私が折れて聞き手が主役ってことでこの家では運営しますということに合意してその場を収めた。その後しばらく静観していると、妻が「ないわ」と一言。何が「ない」のかの補足は一切なかったが、妻が見ているアンビリーバボーの録画のことだというのは一目瞭然だった。やっぱり発話された言葉だけで文意を解釈するのではなく、聞き手が話し手を取り巻く環境全体から情報を取得することで「聞く」という行為は成立しているよなぁとしみじみ思いながら「ないね」と相槌を打った。この家では話し手だとか聞き手だとかは関係なく、妻が主役だ。