un deux droit

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コートサイドの喝采

はてなインターネット文学賞「記憶に残っている、あの日」

「痙攣が腹部まで来たらプレーは中止です。それ以上は命の危険がある。」

タイブレーク前のメディカルチェックで、スポーツドクターからそう釘を刺された。
両太ももまで痙攣が進行し、ほぼ満足に歩行もできない。
私はラケットを杖にしながらやっとのことでサービスラインまでたどり着いた。ギャラリーからの歓声が沸く。後輩たちが必死に声を上げる。
もう足の曲げ伸ばしはほぼできない。ステップも踏めない。上半身だけの力だけでどこまでいけるか。私は、忌々しい太陽を睨みながらトスを上げた。



さかのぼること1年前。私たち硬式テニス部は例年通りの体たらくで、最後の地方予選は涙もなく無残に散った。「次の代の部長は自分らで決めて」とだけ言い残して、先輩たちはあっさりと引退した。
まともに部活を頑張っていたのは私ともう一人だけだった。どうするよこれから、と二人で話し合ったが、何も意見が出てこなかったので、自分でも意外だったが「じゃあ俺、部長やるわ」と思わず名乗り出てしまった。
自分が部長なんぞをやることになるとは入学当時には思ってもみなかったが、せっかくやるのだから自分なりにできることをやってみようと気持ちを切り替えた。
部活にはまともな顧問がついていなかったので、テニス雑誌を買ってきて、面白そうな練習メニューを取り入れ、トレーニングを続けた。
部内で毎月対抗戦を開催し、レギュラーを取り合う仕組みにした。
それまでは実力の有無に限らず最上学年からレギュラーを選出していたが、1年生でも対抗戦に勝ちさえすればレギュラーをつかめる実力主義のフェアなシステムに競争心が芽生え、各々がどうにかレギュラーをもぎ取ろうと創意工夫をはじめた。実際にレギュラーの入れ替わりも頻繁に起きたし、私自身もスランプの際レギュラー降格も経験した。部長すら地位の保全はない、という本気度を自ら示したことで、部内のハングリー精神はより高まった。
そのうち、市内で「テニス部がなんか本気出してる」と噂になったのか社会人サークルにお声がけいただき、合同練習の機会をいただけるようになった。あんまり押しかけると邪魔くさいのでレギュラーの4人だけが参加することにし、若さに任せた無鉄砲なテニスを老獪なテクニックでいなしていくおじ様たちから、年不相応な技術を伝授されたのだった。この機会もまたレギュラーへの憧れに繋がり競争心はますます高まったのだった。




「今年は団体戦で県大会に行けるかもしれない」

高校3年の春。
誰も存在を知らないような弱小校だった私たちの高校は、その地区でちょっとした話題になっていた。
春の地区大会の団体戦準々決勝で、県大会常連校を破ったのだ。
勝敗を決した私のシングルスがちょっと劇的で、カウント0-5からの7-5という大逆転勝利。
50人を超える相手チームの部員たちは、コートの四方を囲むフェンスにびっしりしがみつき、声を限りに声援を送り私にプレッシャーをかけていたが、私がマッチポイントをとった瞬間静まりかえり、相手選手がラケットをコートに投げつけた甲高い音だけが響いた。
ほどなく、私のチームメンバーが駆け寄ってきて、お通夜の空気が漂う中、『ジャイキリ』を果たした痛快な喜びを抱き合って分かち合った。
その後の大会でも128ドローの個人戦シングルスでベスト8に残ったことでシードをもらうようになり、1、2年の時から活躍しているような地区の有名な選手に顔を覚えてもらえるようになった。予選の地区が違う地域の大会だったので「県大会で会おう」と声がけされたのだが、自分がそのくらいの実力と見られていることが驚きだった。



そして迎えた高3の夏。私たちは他校との練習試合で負けることが少なくなり、久しく出場していなかった県大会に行けるかもしれないという希望を沸々と滾らせていた。わが校の部活はどれも弱小で地方予選を突破することなどほとんどなかったので、これは高校史としても稀にみる快挙を起こせるかもしれない、と大会当日が待ち遠しかった。

大会当日。団体戦は下馬評通り準決勝まで駒を進めることができた。決勝進出の2校はどちらも県大会に出場できるので、あと1勝で夢にも見なかった県大会への扉が開かれる。対戦校は昨年度の準優勝校だったが、1か月前の練習試合で完勝していた。自分たちの実力を出し切れば十分に勝てる相手だと見積もっていた。


しかしテニスの神様はそこまで甘くはなかった。


1か月前に私たちに惨敗を喫した相手チームは、その敗戦から徹底的に私たちの癖や弱点を研究していた。私たちは強敵の撃破に浮かれていたが、それは相手方からすれば手の内を晒しているだけだった。例年練習試合など声がけをしてこない高校だったのに珍しいな、それだけ自分たちの噂が気になっているのだろうかといい気になっていたのは今思えばあまりに無邪気だった。
対戦したメンバーはすべて練習試合で勝利した相手で、テニスの技量ではこちらが上回っていたが、自分たちの得意な勝ちパターンがことごとく潰されて接戦となった。「目の前に県大会」という経験不足からくる緊張感もあいまって、勝てる試合を二つ自滅で落とし、勝ちを攫われてしまった。団体での県大会出場はあと一歩のところで幻となった。

落ち込んでいる間もなく個人戦が始まった。シングルス・ダブルスともに準決勝まで残った4人(組)が県大会に出場できる。しかし敗戦のショックを引きずってか、格下相手によもやの敗戦を喫すメンバーが続出するという悪い連鎖が続いていた。ダブルスは準々決勝まで残れたペアはおらず、シングルスも準々決勝まで勝ち残ったのは私ともう1人だけだった。
昨年はそもそも準々決勝前で全滅していた高校なのだから、本来は2人残っただけでも快挙だ。けれどもこれだけ前評判をあおっておいて、結局全滅でしたという事態は何とか避けたい。もう1人の方はシード1と当たってしまい即死。一矢報いる責任は周囲をけしかけた私自身にめぐってきた。

準々決勝の相手は練習試合で一度対戦経験があり、6-1で完勝した相手。取り立てて身体能力に恵まれているわけでもなく、プレーは丁寧だが破壊力に欠ける印象。ここまでのドローを見る限りでは、たまたま良い山だったんだろうと思っていた。
サーブ権を取り試合開始。最初のポイントのリターンで、彼は予想もしなかった手を打ってきた。いきなりスピンロブを打ってきたのだ。調整がうまく行かなかったのか、そのリターンはアウトになったが、私は得体の知れぬ気味の悪さを覚えた。
その後のラリーでは、私がどんな球をどんなコースに打とうともすべての返球は山なりでスピードのないスピンロブだった。わざとチャンスボールになるような短い球を打っても愚直にスピンロブを打ってはベースラインに戻る。前に詰めてボレーの構えでも見せたらパッシングでやっつけようと思ったのに、その手には乗って来ない。ひたすらこちらのミス待ち。
ウイニングショットが浅くなってロブで頭を抜かれたりスマッシュを失敗したりということが何度かあり、フラストレーションはたまるものの、しょせん付け焼刃の戦法。辛抱強く付き合っていればロブが浅くなったり、相手がミスショットを打つ確率の方が高かった。試合展開はいつもの倍近く時間がかかっていたが、徐々に点差は開いていった。私たち以外の試合は全て決着がついてしまい、県大会行き最後のチケットはどちらの手に渡るのかと、徐々にギャラリーが増えていった。

異変が起きたのは私が4-1リードの休憩中。ベンチから立ち上がった時に左足のふくらはぎが攣ったのだ。「おいおい…なんでまたこんなときに…」あと少しで勝利というところまで来ていたのに突然のトラブル。無理なダッシュはできないが、6割くらいのプレーはできるし、いろいろ小細工をやって乗り切ろうと考えた。
片足が攣って私はようやく気付いた。私はロブの跳ね際をジャンプしながらライジングショットで返していた。練習試合の時もその打ち方を多用してポイントを稼いできた。相手は私の得意なショットを逆手に取った。そんなにぴょんぴょん跳ねるのが好きなら跳べるだけ跳んでみろよ、と。普通のラリーより高い打点で処理するためにジャンプの高さが数センチ高く、その負担がふくらはぎに蓄積していたんだと思う。ましてや真夏の大会、団体戦、個人戦ダブルスと連戦を重ねて疲労がピークに達した終盤戦。相手はまともなラリー戦だと勝てないと踏んで、足を破壊しに来たのだ。そしてその術中に私はまんまとはまっていた。
私が足にトラブルを抱えていると悟った相手は通常のラリーに切り替えた。今ならラリーで優位に立てるかもしれない。けれども私にとってはレベルスイングのラリーの方が負担が少なく返り討ちにした。相手はあきらめてまたスピンロブを続けた。
満足にラリーを続けられず、ミスショットを連発しながらもなんとか5-3に漕ぎつけた時、今度は右足も攣り始めた。こうなるともうほぼ初期位置から動けない。当然の如く、コートでカバーできる範囲が限られて一方的な試合展開になり、あれよあれよと3ゲーム連取されスコアは5-6となってしまった。
サービング・フォー・ザ・マッチ。ギャラリーの歓声は最高潮に達した。何も策を打たなければまざまざと負ける。そう悟った私は捨て身の作戦に出た。サービスラインギリギリに立ち、リターンエース一本に絞ったのだ。
1ポイント目。逆に勝利に王手をかけて固くなったのか、相手はダブルフォルトを犯す。どよめきが起こる。0-15。2ポイント目。相手がファーストサーブをネットにかける。また、どよめき。セカンドサーブ。これもまた入らない。どよめきに歓声が混じる。0-30。3ポイント目。今度はセンターに手堅くファーストサーブを入れてきた。私は強引にコートの右隅めがけて振り抜くもアウト。相手が安堵の表情を浮かべる。やはりそんな状態でリターンエースなど取れるはずがない。15-30。4ポイント目。またセンターにサーブを入れてきたが、浅い。これを左隅へクロスを決めリターンエース。思わず右腕を天に突き上げる。ギャラリーからの拍手が止まない。もはや会場全体が私を味方しているようで、相手がいたたまれない状態になってきた。15-40。5ポイント目。相手は開き直ったのかワイドに鋭いスライスサーブを打ち込んできた。初期位置から動けない私は触ることすらできず、ノータッチエース。これにも歓声と拍手が凄まじい。30-40。6ポイント目はサーブをボディに打ってきた。これではエースを狙うのは難しい。仕方なくセンターに打ち返し、一歩前に出る。ここを取られてデュースになってはもう勝てない。落ち着きを取り戻した相手のダブルフォルトはもう期待できないから、このゲームを取るにはこのポイントしか勝機がない。相手が打ってから動いたのでは間に合わない。私は賭けでバックハンド側に飛び込むことに決めた。相手はこれまで通りロブを打てさえすれば確実にポイントを取れたはずだが、センターに打ち込んだリターンが思いの外深かったのと、サーブ後のステップが崩れてロブを打つためのステップが踏めなかった。苦肉の策で面だけ合わせて打ち返したショットは私が待ち構えるバックサイド側へ。私は腕を精一杯伸ばして倒れ込みながらダイビングボレーを放った。直後に歓声。声にかき消されて審判のジャッジは聞こえず、打ったボールの行方を追う余裕もなくコートに突っ伏してしまったのだが、相手方の様子を見ると私がポイントを取ったらしい。ゲームカウント6-6。敗戦濃厚な雰囲気から首の皮一枚繋げてタイブレークをもぎ取ったのだった。

ネットに手をかけ、足をひきづりながらベンチに戻る時、私は不意に変な感情が心に満ちるのを感じた。なんだろう、試合途中なのに私はもう満足してしまっている。先程のバックハンドのダイビングボレーが私の3年間の集大成だ。これまで積み重ねてきた練習は全てあのショットを打つための布石だったのだ。そう感じてしまうほど私は極限の集中状態にあって、あの瞬間の洞察、ひらめき、ラケット先の細やかなタッチなどが全てスローモーションのように感じるほど完璧な所作だった。自分の能力で発揮しうるパフォーマンスの最高地点を見てしまったのだ。

一度途切れた集中と失われた戦意は戻ってこず、タイブレークは7-2で落とし、私は敗けた。最後のポイントもバックハンドのボレーだったが、もう先ほどの執念は再現できず、フレームショットとなりボールはネットに吸い込まれた。長かった。対戦相手には、やりにくい試合になってしまったことを詫び、県大会出場を祝福した。いつまでも続く温かい拍手に包まれ、こういう競技人生の終わりも悪くないと清々しい気持ちでコートを去った。
あれ以来足を攣るのが癖になってしまったし、毎日何時間も練習していたテニスへの情熱が戻ることはなかった。それは、自分の能力以上のものを出した後遺症なのかもしれないが、一片の未練も無く何かをやり遂げることができた、と思える経験はなかなか貴重だと思う。敗けた後に見上げた青空は、今でも網膜に焼き付いている。