un deux droit

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私たちは皆タイムリープしている

最期は神頼みならぬ仏頼み。
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これは以前妻がこれでも読んでおけと打ち捨ててあった本である。私の苦悩の元凶から処方された解決策というのは気分の良いものではないが、著者に罪はないので蜘蛛の糸にでも縋るようにページをめくる。すると思いのほか収穫があった。
最も心に残ったのは「過去の記憶」に囚われないこと。あるいはその裏返しで、目の前の人を常に「初めて会った人」と受け止める、ということ。私はこれまでの衝突の数々から二度と同じ苦しみを味わいたくないと、因果関係を記憶に焼き付けて衝突を回避しようと努めてきたのだが、それは無駄だった。だって目の前の人は衝突した時とは違う人なんだもん。「〇〇しないで」「〇〇して」と私に願った人は既に存在しない。だから類似のシチュエーションで「これは〇〇しろってことだったな」と早とちりして実行しても「なんで〇〇するの?」とキレられることがある。だって違う人だから。そんな人に「前は〇〇しろって言ったのに」と逆ギレしても無意味どころか火に油だ。究極的には「それどの女と勘違いしてんの??」と言われても仕方がない。だって違う人だから。もし記憶の通りにやって喜ばれてもそれは単なる偶然。私の記憶の中にいる「誰かさん」と目の前の人がたまたま同じ趣向を持っていただけ。明日おんなじことをしたらブチギレられる危険はゼロにならない。

相手のことをしっかり覚えておくことは誠実なことだけど、相手も自分自身のことをよく覚えていない可能性があることは盲点だった。だから予想外の反応があったときに「あぁそうだったこの人は別人だった」とすぐに思い直して初めてのシチュエーションのように振る舞うが吉なのだ。もちろん昨日と今日でまるきり違う人格になるわけではないけれど、部分的に絶えず変化しているのだからか「原則記憶と同じ人」だけど「もしかしたら記憶と違う人」という保留を常にしながら人と接するべきである。
ちなみに「前も言ったじゃん!」と過去との整合性をとるよう迫ってくることもあるが、それはその人にとっての過去にはそういう記憶があるのだなという意味に過ぎないので、そうだったかな、ちゃんと覚えていなくてごめんとだけ表面的に受け止めて、事象自体は新しいこととして処理すべき。相手はきっと過去の私でない誰かと勘違いしているのだ。

なんかこれリゼロでみたタイムリープの世界観だなと思った。毎日、もしかしたら毎秒、他者は私の記憶がリセットされてていつでも初めましてなのかもしれない。私の頭をかち割った妻はもう存在しない。妻が頭をかち割った夫も存在しない。だから目の前の妻らしき人に恨みを覚える筋合いはないし、妻も目の前の夫らしき人に罪悪感を覚える必要はないのだ。
妻がこの本を私に授けたのは、彼女自身でもできていないことだけど、相手も同じ認識を持って初めて成立する世界観なので、良く読んでもう一度、いや初めましての妻と向き合ってみようと思う。