un deux droit

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人につく「市場価値」の胡散臭さ

5つの会社の経営陣に君臨して荒稼ぎしていることが自慢の大学の先輩と久々に話す機会があった。「人の方は市場価値」「みんな結局金が欲しいんだよ」「経営者というのは仕事できない人の首を切りたくて仕方がない」などということを公言して憚らない、ある種気持ちのいい人なのだが、昔に比べて彼の言説に心惹かれることがなくなっている自分に驚いた。
一つには、今の生活に十分満足していてこれ以上の向上を望んでいないこと。これ以上の生活を望むと維持の大変さが出てきたり、それを維持するために仕事に費やさなければならない負担が割に合わない。これ以上働いて稼ぐよりもランニングや読書に時間を割きたい。早く寝たい。人生長いのだからゆとりと健康をいつでも優先したいのだ。この辺は価値観の差に過ぎず、私は先輩のような価値観を否定してはいないのだが、先輩タイプの人は自分の価値観に与しない人の存在が気に食わないらしい。その時点で自分の消費スタイルは自己顕示欲起点であることを認めているようなものだが。
もう一つには、お給料と人の価値を紐付け無くなった。クロちゃんが年収3000万なのはあくまで希少価値ゆえであって、本人の徳や人格を金銭的に査定したわけではない。彼を羨ましいとか彼のようになりたいとか彼と人生を変わりたいと思う人は少ないだろう。また、彼より大半の人が年収は下回るだろうけど、彼より人間的に劣っていると思う人が少ないのも想像に難くない。人であれ物であれ、必需性や有用性や美しさや素晴らしさとは関係なしに、希少であれば高い値打ちがつくのだ。何なら先に根拠もなく高い値打ちをつけることで希少性を後付けしている例すらある。それくらい値札と実質的な価値には開きがある。そして、値札の数値が上がれば上がるほどその傾向は顕著である。
そんなわけで、人間につけられる「市場価値」なるものに振り回されること自体が愚かしいと思っている。市場なので必ず暴落するリスクがある。そのくせ人間の時間は物の購入とは違う。物の購入は即時的だが、人間の市場価値を上げるためにはそれなりの時間の投下を要する。興味も関心もないのに開始時のレートが高い能力を身につけるためにそれなりの時間を費やし、手にした時には無価値になっているとすれば目も当てられない。市場価値を参考にして自分の身の振り方を決めることがいかに危ういことかは弁護士や歯科医の業界を見てるとわかる。
結局は、市場価値とは関係なしに自分の興味関心に突き動かされた仕事でしか人は幸福になれないのだと思う。さらに高い値打ちがつくかどうかは時の運。職業に貴賎なし。自分の気持ちに素直になって、ご機嫌に働こうぜ。