un deux droit

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ヒロイックな自尊心の過ち

「今日入稿する記事の校正が全然終わらない。全然納得いかないけれどこれでいいとも思えない。」と泣きつかれたのか見当違いの苦情を言われたのかよくわからないメッセージが飛んできたのは昨日の23時半。一応事前に方向性のアドバイスはしていたのだけれど、「え?原稿を直接修正してくれるわけじゃなかったんだ…」という呟きがタイムラインに流れてきたので越権行為とは思っていたが全編リライトしてあげた。字数にして8000字。複数の筆者が手分けして執筆したチグハグな文章を方向性の統一感を持たせて編集した。25時半にアップしたら今朝の7時半に「感謝」の2文字と泣き顔のキャラクターのスタンプが1つ送られてきた。
編集者とはずいぶん気楽な仕事だなと苦笑しながらも、一連の顛末を振り返り、こういう図々しい甘えや依存が許容されている、当社のぬるすぎる空気で形成されたコミュニケーションの型が、我が家においては有害な影響を与えていることを痛感した。
妻から言わせれば、当事者に責任があることを安易に代行するのは本質的な問題解決を遠ざけ、当事者の成長を阻害する唾棄すべき行為だ。それでいて代行した人間はヒロイックな快感を覚えてその過干渉度合いを増長させていくので手に負えない。責任範囲の明確な分掌と自律、そして処理能力を超過する困難が生じた場合は事象の報告だけして構われ待ちのような無責任な態度を取らず、仰ぎたい協力内容を具体化させた上で明確な意思を持って依頼するのが誠実な大人の態度である。これが10年以上海外で生活し、外資系企業で鎬を削ってきた妻の、社会人に求められる姿勢の基本中のキである。そんなわけで私も含めて当社の人間は根こそぎ妻から社会人失格の烙印を押されている。
妻からはこの点の成長をもはやあまり期待されてはいないんだけど、会社で醸成された共依存の馴れ合いを夫婦関係や子どもの教育指導には持ち込まないようきつく厳命されている。私が味わったヒロイックな自尊心は、プロの社会では誤りである。実践はできていないものの、責任ある行為と過干渉の境目を自覚できるようになっただけでも少しは大人になったのかなと思う。こうやって幼稚な高揚を書き出すことでデトックスして、また無心を取り戻し、粛々と家庭での職務に就くことにする。

今週のお題「大人になったなと感じるとき」