un deux droit

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教育機関としての結婚

結婚は辛いことのほうがはるかに多いが、それなのに結婚は機会があるならしたほうがいい経験だと思う。



私は妻と毎日のように喧嘩をしている。

その頻度に我ながら人ごとのようにヒいている。

人生で妻よりも多くの口論をした相手はいない。2位と圧倒的な大差だと思う。

好き合って結婚したはずなのに、こうもソリが合わないかというくらいいちいち合わない。

価値観が合わないどころの騒ぎではなく、価値観が合わない時の妥協の仕方、すり合わせの作法から合わず、諍いが起きた時の収拾がまるでつかない。

破局の危機は数知れず、離婚後の家探しや子供を引き取った場合のシミュレーションを夜通ししたこともある。そこまで行っておきながらも、なんとかかんとか6年関係が続いている。


この6年間で得た教訓は、自分がいかに愚劣で、卑怯で、怠惰で、傲慢であるかということだった。

喧嘩になった時の妻は容赦ない。自分が薄々自覚していたが見ないようにしていた己の弱い部分、醜い部分をことごとく的確に照射して、攻撃してくる。

受け入れ難い等身大の自分を克明に描いて、これが本当のお前だ。直視しろ、と迫ってくるのだ。

人は誰しも自己評価は大甘だ。そこに本当の評価が貼り出されるのだから恥ずかしくて正気でいられたもんじゃない。心の中で大切に育ててきたお花畑アイデンティティ崩壊の時である。

そうやって身に纏った虚勢や見栄を全部引き剥がして、癒着した部分が千切れる痛みに悶絶しながら等身大の自分を認めることでしか妻との和解の道はないのだ。


通常、他人がここまで自分にダメ出しをしてくれることはない。ダメ出しする側も私からの逆ギレのリスクをわざわざ犯さず、私に気に食わない点があればそっと距離を置くだろう。私とて、そんな小うるさい人間を近くに置いておかない。

そうして結局自分は内面の成長機会を逸することになるのだ。

ところが結婚相手となるとそうはいかない。

赤の他人同士が一つ屋根の下で暮らす。

赤の他人なのだから当然生活習慣も価値観もまるで違うのだが、合わないからといって気軽に別れられるものでもないし、気に食わない点を辛抱し続けるには距離が近すぎる。自ずと本音の流血戦をしてでも問題解消し続けないと暮らしていけないのだ。その痛みは深刻で非常に不快だが、その反面、大人になってからは得ることの非常に難しい自省の機会でもあるのだ。

この6年で随分ボロボロでクタクタになった。けれども、これほど他人と、そして自分自身と煎じつめて向き合い、深く理解できる装置は結婚制度以外にはないだろう。私はおかげで、他人でも言葉を尽くせば分かり合えるという傲慢と、他人の話は全神経を傾ければ必ず理解できるはずだという楽観と、なんだかんだいって自分の見識は他者にとって有益だという不遜を手放すことができた。人は分かり合えることなど永遠にないし、自分は驚くほど何も知らないし、自分の忠告が他人にとって本当に有益かどうかなんて未来永劫証明できない。一言で言えば謙虚になったというだけなのだが、人が謙虚になるにはここまでコテンパンにならないといけないのだなとつくづく思う。だって結婚するまでの私の座右の銘は『虚心坦懐』だったのだから。