un deux droit

このブログには説明が書かれていません。

飲み会の意義を飲んでいる最中に自問する

先日、セミナー講師の仕事があり、その後の懇親会まで参加してきた。このセミナーの仕事は、知識や技術の習得というよりワークショップとそのためのチームビルディングの要素がある。そのせいか、開催は2ヶ月に1回の全6回シリーズのカリキュラムで、毎回懇親会とセットになっている。育休期間に断酒した名残で、育休終了から7年たった今でもプライベートでは全く酒を飲まなくなってしまったので、今年お酒を飲んだのはこの顧客とだけみたいな状況になっている。

最初の数回は様子見で比較的大人しかったが、直近の回は大学生とて今日日こんな飲み方はしないというような乱痴気騒ぎで、コールの乱発、焼酎ストレートみたいな馬鹿な飲み方をした。終始中身のない話題に腹が捩れっぱなしだった。酒で吐いたのも大学生ぶりだったが、たまにはこういう日もあっていい。

酒は人間関係の潤滑油、なんて言われ方をして、コロナ禍を経たあとも飲み会文化は絶滅せずしぶとく生き残った。私はその謳い文句が端的に嘘だということを知っている。私自身は酒を飲まなくなってからも人間関係を深めることに支障があったと感じることはないし、アルコールを接種しなくても本音を本人に言うことに躊躇いがないので、飲み会がなくても関係が親密になることが可能だった。けれどもそうやってもっともらしい名目に縋って、集団で酒を飲むことをやめない人がかなりの数いる。

酒が好きなだけなら一人で飲めばいいのに、あえて集団で飲もうとする。けれども、飲み会は関係性の構築の必須要素でない。とすれば、なにか別の、公言するのが憚られる、後ろ暗い動機が潜んでいると考えるのが自然だ。それは果たして何なのだろうか。そんなことを、飲み会の真っ最中に、顔だけは笑顔で周囲の話に相槌を打ちながら考えていた。

醒め切った目でこの乱痴気騒ぎを俯瞰すると、コミュニケーションは成立していない。つまり、普段言えない思いを酒の勢いを借りて伝える、みたいな、特定の相手めがけたボールは誰も放り込んでいない。全体、周囲、あるいは隣の誰かに向けて声を発してはいるのだが、肝心の内容は相手を必要としない独り言だったりする。「俺ゴルフ好きなんすよ〜今度一緒に行きませんか?」は本当のお誘いではなく、ゴルフが好きだという情熱の一人語りだし、「この年代でB'z好きを公言できるなんてあざとい」は相手に向けた好意や嫌悪ではなく、自身のルッキズムや世代感に対する偏見の吐露だし、「俺この前友達と深夜にドライブして、クラクションを鳴らしまくってたら警察に止められまして」は場を盛り上げるための自虐ネタではなく、自らの倫理観の欠如の自白である。皆が皆、その場の騒音に紛れて、公言憚られる内に秘めたる思いや感情や信念の発露を畳み掛けている。

人は誰しも、社会人としての良識と節度ある立ち振舞いを自らに課しながら、社会に許容されないであろうごく個人的な、中央値から逸脱した衝動をこらえている。そんなビジネスパーソンにとっての飲み会は、「王様の耳はロバの耳」と叫ぶ穴なのだと思う。皆、その衝動を曝け出したいし、その上で許されたいのだ。最初はちょっとした考えの披歴から始まり、どこまで許されるかを常に値踏みしながら、場の許容度がある閾値を超えると一気に秩序は崩壊し、発言から行動にフェーズが移行する。明日のことなど考えず痛飲する者、意味不明な言葉をシャウトする者、女性に猫なで声でもたれかかって甘える男性、男性に軟弱者と啖呵を切って酒を強要する女性。その醜態と、普段の仮面をかぶった姿とのギャップがまた笑いになり、倫理観の崩壊はエスカレートしてゆく。

私はその先に、服を脱ぎだしたり、排泄をしたり、殴り合ったり、性k(以下自粛)とどこまでも獣に堕ちていく人々を見てきたので、今回の飲みは地獄の入口手前で済んでよかったなと胸をなでおろしている。と同時に、今回の参加者はそれだけ日々の暮らしで、自分で自分を抑圧しているんだなと複雑な気持ちになる。もっと日常の段階で、自分へ課すハードルを少しだけ下げて、心のささくれをケアすることで、いつか非日常の酒席で暴発して警察のご厄介になるような不幸な結末の到来を回避してくれることを願っている。