un deux droit

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文筆といふは分泌することと見つけたり

ブログを書き「始めた」理由と、ブログを書き「続けている」理由は、私にとって異なる。

私がブログを書き「始めた」のは、2015年らしい。第一子の長い育児休業に終わりが見え、仕事への復帰を始める段階でこのブログを開設している。当時は会社の中で、本名で育休ブログを書いており、それを取引先にも広く公開していた。2015年はまだまだこんな男性育休ブームは来ていなかったので、完全に珍獣扱い。大して特別な内容でもない、それこそ世のお母さんが当たり前に経験してきたありふれた日々の事柄を、男の私が書くだけでそこそこウケた。女もすなる育児といふものを、男もしてみむとてするなり、といったところだ。まったく、どうにも嫌らしい、浅はかな企画だと思う。とにかく私はそのブログで、家事育児を妻に押し付けてきたオジサンたちの矜持を逆なですることなく、だれからも称賛されずむしろ厄介者扱いされてきたママさんたちの反発を招くことなく、慎重に言葉を選び、自虐に自虐を重ね、「愛い奴」として扱われるよう神経を使ってブログを書いた。オジサンたちからは奥さんの尻に敷かれる軟弱者としてナメられるように見せたし、ママさんたちには初歩的なことにも悪戦苦闘する新米「ママ(あえてこう書く)」としてドジっ子を演じた。書けば書くほど、本当の自分の実体からはかけ離れていた「あんどうくん」がこしらえられていった。俺の本心はこれじゃない。でもそんなことを素直に書いたら総スカンを食らう。そんな建前の自分からエスケープできる場所を作りたかった。王様の耳はロバの耳、と叫ぶ穴が欲しかったのだ。これがブログを開設した理由になる。

本音を言いたいだけならば、日記にでも書きなぐればいいじゃないかと思う向きもあるかもしれない。この点が大多数の一般ブロガーにとってセンチメンタルな領域だと思うのだが、どうも人間には、自分の思いの丈を発散するときに、不特定多数の他者がランダムに触れる形で出力しないとすっきりしない仕組みが備わっているように思う。先に書いた「王様の耳はロバの耳」もそうだ。そんなことは脳内で処理して、心の中にとどめておけばいいじゃないか。でもそれが人間にはどうも耐え難い。紙に書きなぐるでも気が収まらない。「音」にして、誰に聞かれるかもわからないリスクを冒してでも「拡散」する効果を伴わないと消化できないのだ。それはセミの声のような求愛行動の名残かもしれないし、オオカミの遠吠えや犬が電柱におしっこするマーキングの名残かもしれない。いずれにせよ、何かしらの音を震わせ、分泌物をまき散らすのは生物にとって抗いがたい性なのだと思う。

(余談だが、大学時代はよく深夜、ギターを片手にセキュリティの緩い学内の建物に忍び込み、屋上で弾き語りをしていた。思えばあれも、私の体内ではブログを書くのと同じ効用があったのだろう。ほら、街中でバイクでブンブン言わせているのも似たようなものだよ。人気のない山奥ではやらないじゃん)

騒音や小便は脇に置いて、ある程度の意味を成す知的な文字列の発信を欲する場合は、昔だと瓶に手紙を詰めて海に流すくらいしか手段がなかったと思うが、今ではインターネットがある。文字列を発信するという行為について、私にとっての原体験(おおげさ)は、mixiである。ちょうどあれも、ブログのように、不特定多数の他者に触れるような触れないような絶妙な広がりがあった。基本的には顔見知りの反応しかないが、時折漂流してきた見たこともない人と気まぐれで接続される。このたまにあるランダム感がとても心地よかった。地縁から半分だけ足を出て、自分の顔も名前もこれまでの経歴も知らない人が自分の文章を目にして、適当な感想をよこしてくるのだ。

地元の友人と大人になってから何か語らうとしても、小学生の時のチビでドジでどんくさくて泣きべそをかいていた「なおくん」の影がどうしたって常に付きまとう。なーに急にこまっしゃくれたこと言ってんだよと「小学生のなおくん」を見るときの目で見られているような気持ちがしてこっぱずかしくなる。その未熟さや野暮ったさを切り離し、成人して人格の整った「あんどうなお」として突如登場したような、そんな都合のいい錯覚-快楽をmixiは与えてくれた。私がブログを始めた当初、ブログに求めたものも、mixiのときの追体験、つまり半匿名でなにかを発信することの心地よさだったと思う。

私のブログは、自分をリアルに知っている人が隅から隅までブログを読めば、「あ、これあんどうだな」とわかる内容だ。その意味において厳密には匿名ではない。でもこんなインターネットの大海では、小魚として泳いでいる分には、まずそんな偶然の再会はおきない。でもひょっとしたら今まであった何万かのアクセスのうち、実在のあんどうを知る人間が、このブログの文章に触れ、あんどうだと気づかずにまた去っていったことがあったかもしれない。そんなバーチャルとリアルのあいまいな境界線をたゆたう浮遊感。これが日記と違う最大のポイントだと思っている。大多数の一般ユーザーにとっても、ブログを始める理由は「表現者として脚光を浴びたい」とかそんな振りかぶった話ではなくて、もう少し手前の、ささやかな自己顕示欲というか、手あかのついた現実から不純物を削いだペルソナをこしらえたい、みたいな動機なんじゃないだろうか。




そんな思いで始めたブログは、気づけば1000を優に超える投稿の山になった。日に数十のアクセス、アクティブな読者は常に10人程度と常に超低空飛行で安定し、ほぼ誰の目にも触れないガラクタの山を積み上げてきた。もうここまでくると、先に書いたインターネット世界とのランダムなつながりが生み出す甘美さはなく、ほぼ味のしないガムになっている。自分だけしか見ない日記と限りなく同じである。それでも続けているのは、私に別の動機が生まれたからだ。

ある日、無数の駄文を読み返す中で、ごくまれに、砂金程度のわずかな量だけど、光り輝く一文がこしらえられていることに気がついた。この投稿のときのことはかすかに思い出せるけれど、どうもこれは私の文章じゃないみたいだ。二度と自分はこんな文を書けない。この筋書きはとがっている。このリズムは絶妙だ。こんな思考の巡りになることは金輪際ない。そんな流れ星のような文章が、自分の指先から生まれたことに驚き、その一節の輝きに我ながら惚れ惚れする。

私のような凡庸な脳みそでも、日々何らかのインプットとアウトプットを繰り返していると、そんな愉快な化学反応を発生させることがある。もちろんその文章は、私が書いた大量の駄文に紛れて、他者の目に触れることはなくなっている。ちょうどゴミ屋敷の主のように、自分だけは簡単にゴミの中から簡単に宝物を掘り起こすことができる。それを時折掘り起こしてはうっとりと眺める。そしてまたゴミの山に放り投げる。そんな感じでこのブログを活用している。その数百文字の宝物が、ゴミの山をかき分けるようなうんざりする毎日を生き抜くうえでの支えになっている。こんな文章を生み出せるうちは、まだまだ自分は大丈夫。そうやって自分を慰めるために、また駄文を積み重ねていき、その中に宝物を探す。そうやって日々をやり過ごしている。

日記でなくてブログである必要性は、検索可能ということ。そして、一応他人に見られる可能性があるということで、最低限の格調を整える負荷を自分に課すことができる、という理由に変わった。ブログとは別に、紙の日記にも日々のことを書き連ねているが、こちらは読み返してもまるでなんの輝きもない。ゴミofゴミ。ただの老廃物。日記しか書かなかったら自分のことが嫌いになるかもしれない。その意味でもブログであることは大切だ。

ところで大半の文章がゴミだということは、生きているだけで、それだけ脳みそには老廃物が溜まるということでもある。ブログをやっていない人は文章の巧拙など気にせず、ブログを始めたらいいと思う。むしろ文章が拙ければ拙いほど、脳には老廃物が溜まっていたわけで、駄文を吐き出した分だけ脳は健康になれるのだから。




特別お題「わたしがブログを書く理由