un deux droit

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欠席裁判

会社の同期を怒らせてしまった。

広報誌の企画で座談会とインタビューの企画を考える際、その同期のいないところで話をまとめたことを憤慨されたのだ。

その同期は私の前任の編集責任者で、今は別の役割を担っている。だから厳密に言えば企画に携わらせる義理はない。しかし、これまでの誼と、氏が役割の解任に至った経緯の不当性について氏の肩を持つ思われている私は、特別の便宜を図って企画には一枚噛ませてくれるという暗黙の了解を取り付けられていた。それで氏の承認願望を満たしてあげることを期待されていた。
しかし暗黙は暗黙である。一応任期の序盤はこちらから声をかけていた。しかし氏は、会議では特に有益な意見やアイディアを発するわけでもなく、自分から企画を持ち込むでもない。企画はなくともそろそろなんか面白いことやろうぜ、と口火を切って人をかき集めるでもない。ただただ誘われ待ちで主体的に広報活動が一歩でも前進するための運動エネルギーを割かない。つまるところ、企画の生まれるその場に自分も立ち会っていた、というスタンプを押したいだけなのだ。

決して邪魔はしないが、いる意味もない。そんな無害無益っぷりが解任された原因であるということが今ひとつわかっていないようだ。私は氏のことを好きでも嫌いでもないが、ただもう企画をまとめるリミットが迫っていたのと、氏のスケジュールが他のメンバーと噛み合わず、とりあえず集まれるメンバーが一番多い日で集まろうとした時にたまたま氏が弾かれただけだった。一応編集責任者の私以外、誰が弾かれるかはランダムだった。弾かれた人には事後報告で意見を聞けばいいと思っていた。これまでも同じようなシチュエーションで弾かれた人は他にもいたが、そんなことでいちいち憤慨することはなかった。氏が初めて難癖をつけてきた人物だった。

他の人が弾かれてもなんにも言わなかったのに、自分な当事者になったらつべこべ言うなんて虫が良すぎる。それならこれまでも「あの人抜きで決めちゃうのは良くない」というべきだったじゃないか。自分のときだけ許さない、自分は特別扱いされるべきというのはダブル・スタンダードだと思う。また、それほどまでに企画会議に執心するのなら、前任者として企画→編集→発行のタイミングは熟知しているのだから「そろそろ企画始めないとやばいんじゃない?」と声かけの一つでもしてみたらいいのだ。そうやって関与する姿勢、貢献したい意欲を見せてくれる人を邪険にするほど私は愚かではない。たとえ会議で何一つ役立つ意見を寄越してこないにしても、だ。

私は仕事はやりたい人が、やりたい時に、やりたい分だけやればいいと思っている。とくに当社の広報のような、誰一人専任者でなく、皆それぞれ本業を持っているようなプロジェクトならばなおさらだ。(そもそもそんないい加減な業務の任せ方をしている会社が一番頭おかしいのだけど。)来る者拒まず、去る者追わず。急にやる気出して企画持ち込んできた人間は丁重に歓待するし、急に飽きて投げ出しても憤慨しない。そしてまた気まぐれで戻って来ようと以前の不義理を蒸し返したりはしない。その時その時で使える道具を使って間に合わせるだけだ。内田樹氏はそのようなあり様をブリコルールというのだとかつて紹介した(違ったらごめん)
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この記事に感化されて以来、私はこのあり様を愛している。ただ人にはなかなか理解されないし、仕事に対しての責任感が薄いと受け止められるかもしれないし、そんな扱いを受けて平気でいられるのは自分の尊厳に無頓着だからだと笑われるかもしれない。そしてお前の自己愛が不全なのは勝手にしろだが、他人の尊厳を踏みにじることの免罪符にはならないぞとお叱りを受けるかもしれない。まあそんな半端者だから中小零細企業でくすぶっているのだ、何が悪いと居直るだけなのだけど。