un deux droit

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「生涯子供なし」を政争の具にするな

「生涯子供なし」現18歳女性で最大42% 男性は5割も

こんな見出しの日経記事がTwitterでワイワイ騒がれていた。

賃金が少ないからだとか、政治が悪いとかいろいろ言われていて、それぞれそれなりに影響はあるのだろうけれど、肌感覚的にはなにか釈然としないものを感じる。

田舎から都会、低学歴から高学歴、低所得から高所得という様々な層を横から眺めてきて、子どものあるなしと、それらの属性が相関関係のあるように思えないのだ。どの層を切り取っても、子どものあるなしの比率はだいたい同じくらいに見える。

もっと踏み込むと、それぞれの属性が変化したくらいでは、子どもを産む産まないの選択に変化が生まれるとは思えない。例えば17歳で子どもを産んで高校を中退した久保田さんは、もっと頭が良かったら子どもを産むのを控えたかというとそんなことはなさそうな人柄だった。地元で郵便局員をやっている長野くんは、たとえ年収が1000万円になっても結婚するようなキャラクターじゃなかった。年収300万だとちょっと子どもはと思うけど、400万になったら産もうかなと思う人は現実にはいなくて、どんな条件でも子どもを産む人は産むし、産まない人は産まない。ただそれだけのことのように思う。

受精可能な精子と卵子を保有しているかどうかとは別に、精神的に「種なし」「卵なし」な人が一定数いる。それは自然なことなのではないか。自分もあれこれ理由をつけて子どもを授かったが、今振り返ってみればただの「繁殖期」で、ホルモンに突き動かされて発情していただけだった。収入の多寡や知性の有無でどうこうできるもんじゃない。発情したものを止めるのも、発情しないものを無理やり焚きつけるのも、同様に無理筋である。

むしろ、かつてのお見合い結婚のような文化のほうが生物的には異常で、現代は文化などというあやふやなものに突き動かされず、自身の動物性の強弱に委ねられるようになったことを寿ぐべきではないだろうか。海外の生涯無子率との開きがあるとして、どっちが個人にとって望ましい環境なのかは軽々に決められない。あくまで国家にとって都合が悪い、ということしか言えない。

賃金は上げるべきだし、教育は無償化すべきだし、男は家事をすべきだし、女性は社会的地位を向上させるべきだ。けれど、それはあくまでそれ単体としてそうすることが善であると受け止められていいことのはずだ。それぞれのテーマは、子どもを増やすのに有効な可能性があるからする、という「手段」として扱われていいはずがない。上記テーマが「手段」に位置づけられることに甘んじていると、「賃金上げても、教育無償化しても、男性育休増やしても、女性活躍やっても、結局子ども生まれなかったから全部元に戻すね」と言われた時に、反論できない。そして私の仮説どおりならば、出生率は上がらない。

少子化という問題を絡めると自分の解決したい課題解決に説得力をもたせられるような気がして便利だ。けれど、長期的にみて首を絞めるだけなので、解決に時間がかかっても単品の課題として世に問うべきだと私は思う。