un deux droit

このブログには説明が書かれていません。

私は本当の喜怒哀楽を知らない。のか?

喜怒哀楽、という言葉がある。娘たち二人のじゃれ合いを観察していると、遊び相手がいて嬉しい→一緒に遊ぶと楽しい→おもちゃが取られてむかつく→喧嘩しているのを叱られて哀しい、のループを無限にやっている事がわかる。喜怒哀楽の4つの感情を万遍なくスタンプ集めしている様を見て、喜怒哀楽とは良くできた言葉だなぁと感心する。

私が不思議に感じるのは、なんで「嬉しい→楽しい」で留めておけず、「むかつく→哀しい」までエスカレートさせてしまうのかなぁということだ。嫌な思いをしたことを学習して、程々のところで手を打ってブレーキをかけられる自制心を持つのが賢い振る舞いではないか。自分の幼少期を思い返しても、人を怒らせる危険水域までわがままを言うようなことを慎重に避けていた。やり過ぎた一時の快楽よりも、人と険悪になったり、罸や制約を受ける不利益のほうが明らかに大きい。他人の手痛い失敗を観察しているうちに、そういうバランス感覚は自然と身についていった。自分が小学生の頃には、今の娘たちのように親を怒らせたり友達と喧嘩したりということはほとんどなかった。

そんな話を妻にすると、あんたは感情表現、あるいは感情そのものが死んでいる、と宣告された。

「喜怒哀楽は全部繋がっていて、喜と楽だけ突出させることはできないの。あなたは、怒と哀を避けるために、自分の喜と楽を殺したの。あなたは喜と楽だけを抽出した気持ちになっているした気持ちになっているのかもしれないけれど、その裏には同程度の怒と哀があって、ただそれが無視できるほど小さいというだけのこと。ということはあなたの自覚できる喜と楽の信号も、うっかり見過ごしてしまうほど微量なものに留まっているのよ。あなたが受容できる喜と楽の最大値はあなたの想定を遥かに上回るところにあるのよ。それは本当に怒ったり、哀しんだりした先にあったり、あとに待ち受けているようなシーンの中にある。怒と哀を怖がって本当の喜と楽を知らずに死ぬか、本当の喜と楽を得るために自分の怒と哀と真正面から向き合うか、一度考えてみたら」

そういうものなのかなぁとぼんやり思う。
自覚できないものの存在証明はできない。

youtu.be