un deux droit

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生命のオーナーとしてのエゴ

会社の同期だった女性の、夫が亡くなった。急死で自殺ではないとのことだから、心筋梗塞や脳卒中の類なのだろうと思う。

その旦那さんは公認会計士としてバリバリ稼ぎ、海外赴任などを繰り返していた。元同期の女性はその赴任に帯同して、今度はロサンゼルス、次はロンドンと、典型的なセレブ生活を謳歌しており、賢そうな子ども二人を連れて成功者の人生を洋々と歩んでいた。そこから急転直下のシングルマザー。いくら旦那さんが高給取りでも、激務で短命ならば果たしてそれで良かったのだろうか。旦那さんは私の収入の優に4倍は稼いでいたが、職業人生は4分の1。生涯収入だいたい一緒。どうせ同じなら細く長く、とも思うが、たとえ短くとも普通に生きていたならば味わえない生活を享受していたのだから、それもまた人生か。

そんなことを考えていると、今度は「女子高生が生配信で飛び降り自殺」というTwitterトレンドを見つけてしまう。本人のTwitterアカウントを見ると、とてもこれから死のうとしている人とは思えない自撮り写真が続き、テキストベースでは希死念慮のツイートが続いている。自分の想像できる人生の終末の心境とは大きくかけ離れており、人の精神状態とは本当に様々だなぁと思う。

精神的には死ぬつもりなど毛頭なかったのに、肉体的には限界を突破して呆気なく死んでしまった人。肉体的な寿命はまだまだあったのに、精神的に限界突破して呆気なく死んでしまった人。肉体、精神ともに健康であるということの当たり前をありがたく思う。それにしても昨日はちょっと人の死の情報に触れすぎた。

そんな日に私は発毛外来に行ってミノキシジル内服薬を初めて処方してもらっていた。保険適用外の、内臓に負担のかかる薬を毎日接種する。この行為だって長い目で見たら自傷行為のようなものなのだし、急死するくらい身体を酷使した彼や飛び降りた彼女の行為と性質はさほど違わないのではないかと思えてきた。違いはせいぜい急性か慢性か、といった程度の問題だろう。他人のエピソードとして聞く分にはとても悲劇的でいたたまれない気持ちになるが、死に向かって突き進む当人にとっては案外、まぁこんなものかと覚めた気持ちで死を受け止めているのではないだろうか。

「自分の人生なのだから、自分の好きなように消費・処分して良かろう」という生命のオーナーとしてのエゴを、それぞれの人間が持っている。ただ私の場合のそれが、ミノキシジルだったということには一抹の虚しさを感じずにはいられないが、まぁそういうスコールの小さい人生があっても良いだろう。せいぜい、フサフサに戻って強風をものともしないか、その代わりちょっと短くなった寿命を精一杯楽しみたい。