un deux droit

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これぞ保守的謙虚さの真髄〜【書評】岡田憲治『政治学者、PTA会長になる』

長女が小1になったので、PTA活動が本格化する前に基礎知識を得ようと『参考書』を手にする。


著者のことは2019年に、この記事を読んで強く印象に残っていた。
gendai.ismedia.jp

リベラル的思考回路の欠点を容赦なく洗い出している。対話による譲歩や妥協の一切ない潔癖な世界観になにかと没入してしまいがちな左側の人たちに、殴られる覚悟で手を差し伸べる。この行為を「転向」とか言っちゃうからボッチなんだよ、と。
反論をしたとて、なにもあなたの主張を曲げろとは言っていない。私は私の主張をしただけで、あなたの主張と違いますよと言ったまでだ。各々のスタート地点を明らかにした上で、現実問題として着地させましょう。その着地点がどれほど自分のピュアな価値観から遠くても、腹蔵なく議論を尽くして、自分と異なる立場に想いを馳せることができた末の結果ならば鷹揚に受け止めましょう。
「提案型野党なんて言ってるから自民党がつけあがるのだ」「だめなものは議論するまでもなくだめだ」そんな声がすぐ聞こえてきそうだが、そうやってすぐカッとなっているから継続的な支持者の拡大につながらないのだ。まぁ愚痴はこの辺にして。


そんな経歴の著者がPTAに殴り込む、と言うのだから読まざるをえない。どうやってこてんぱんにされるのかな、PTAの幸せな話なんぞ皆無に等しいので、怖いもの見たさでページをめくってみた。

序盤は、いつの時代や、とツッコミどころ満載の会議やイベントや組織体制や運営ルールや諸手続きの宝庫とも言えるPTA活動の実態と、その旧態依然とした活動を血眼になって維持しようと岩盤規制を敷く古株の役員の頑迷さが面白おかしく描かれる。まさに伏魔殿と言ったところ。そこに空気も読まず、「これおかしいんじゃないすか」と絡まりまくった蔦をガシガシと斬り倒して進んでいく勇者。そしてお約束の返り討ちをしっかりと喰らうのだがここからが面白い。
著者はちょっと返り討ちにあっただけでは全くへこたれず、なんでこんなことになっちゃったのか、それぞれのレガシーに対してひとつひとつ丁寧に歴史と経緯を紐解き、発端となった趣旨を尊重し敬意を払いつつ、時代の要請や価値観の変化に合わせてより適切な形に変えてゆくのだ。こんなのイミネーと重機で踏み潰すのは簡単だけど、そんなやり方をすればこれまで取り組んできた先輩方の思いを無価値なものと唾棄することになってしまう。諸先輩方も馬鹿ではない。その時々の事情に合わせ、可能な範囲で合理性や整合性のバランスを取れる方法を模索してきたはずだ。それが絶え間ない増改築を招き、グロテスクな化け物になってしまっただけなので、そこに悪意はない。使える部材を拾い集め、歴代の思いを汲み取りながら、新たな建造物を築き上げるその様は、まさに匠の技といった感じ。ビフォーアフターのBGMが脳内で鳴り響く。

更に良いのは、様々な事情を勘案した結果、何も手を加えず残した取り組みも数多くあることだ。ベルマークやポイント制など、もう本来の趣旨と遠く離れた活動になってしまっているものも、またそこに新たな意味が生まれ、モチベートされている親がいる。継続と廃止、それぞれの得失を吟味して継続を判断する。この辺のバランス感覚もいぶし銀といった感じ。

最後まで読み進めると、もうこれ保守政治家やん、という印象を得た。人間は不完全である。人一人の判断より歴史の風雪に耐え生き残った制度のほうが価値が高い。一見無意味・無価値に見えるものも、丁寧によく観察してみるとその裏側には様々なエコシステムが形成されていたりする。だからその時々の権力者が起こして良い変化はほんの少ししか無い。すでにあるエコシステムを破壊しない程度のほんのささやかな変化。設立して長い年月を経た組織というのは運動不足の中年の身体みたいなもんだ。よく寝て、水分を十分に摂取し、丁寧にストレッチして、入念にウォーミングアップをして、靴紐をしっかりと結んで、やっと100mをダッシュできる。もしかしたらそれでもダッシュはしないほうがいいかもしれない。軽く小走り程度。そうやっておっかなびっくり変化をさせなければならない。なんの準備もなしにいきなり全力疾走すればすぐに肉離れを起こす。そしてまた運動から遠ざかり身体はますます硬直化する。

著者の携わったPTAは、ルールや活動が劇的に変わったわけではないように見える。ただ、運動の習慣を手にした。おそらく著者がPTAを離れた後でもちょっとずつでも変化していくことをやめない組織に変えることができた。それが最大の功績だと思う。そんな「絶え間ない微調整」の美学を著者のPTA活動に感じた。



もう一つ素敵だなと思う点を付け加えるならば「家庭を犠牲にしない」という原則を、これまたしつこく浸透させたことだ。PTAはあくまでボランティア。やりたいひとがやりたいだけやればいい。集まった人数でできる範囲のことをやればいい。家庭生活が何より大事で、その支障のない範囲でやればいい。この原則は全PTAに普及させたい価値観だ。普段大人は顔に出していないだけで、本当に無数の苦痛や悲しみを抱えて生きている。直前まで妻の罵声を浴びていたかもしれない。もしかしたら離婚調停中かもしれない。旦那が病気になったかもしれない。子どもの知能発達が遅れているかもしれない。親がボケてきたかもしれない。会社が倒産しそうかもしれない。後輩が上司になったかもしれない。とんでもない借金を背負ったかもしれない。各家庭、人には言えない「事情」を抱えて、それを外に出さずに、平然とした顔をしている。正直な話、こんな低成長の国で子どもを抱えながら生活するなんて、どこの家庭もカツカツだと思う。そんな余裕のない中で、ほんの少しだけ他者や社会のために投下できる思いやりをかき集めて、その総量でできるだけのPTA活動になったらいいなと願っている。自分も5年後には一肌脱げるくらいの余裕ができるのかな。そうだといいな。