un deux droit

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"フリーにはたらく"ための相棒

私はコロナ禍をいいことに、ほとんどの営業活動をオンラインに切り替え、移動時間を大幅に圧縮してきた。おかげで単純訪問件数は増えたし、移動中の不自由な環境で周辺業務をこなすストレスからも解放された。

肝心の営業活動も特に支障はなく、売り上げも順調だ。オンラインだとむしろ冗長な雑談がなくなり、すぐ本題に入り、短時間で営業成果を獲得できる。なんていいことばかりなのだろう。コロナ以前の営業活動がいかに非効率的であったかと思うと暗い気分になる。いや、過去を振り返るのはやめよう。変化した未来を祝福しよう。そう思って日々仕事をしてきた。

 

そんな理想的は日々はコロナの急速な終焉とともに消え去ってしまった。「せっかくならば是非お会いしてお話ししましょう」とならざるを得ない空気に抗えない。顧客によってはもうオンラインという手段を完全に忘却したかのように「事務所でお待ちしています」と圧をかけてくる。「zoomで…」と持ちかけようものなら睨み殺されてしまうかもしれない。

しぶしぶ営業に向かうと、顧客はリラックスした様子で、話題が四方八方に散らかる自由度を存分に楽しんでいる。よせばいいのに私も数限りあるサービス精神をうかつにも漏らしてしまって「例えばこんな手法がありまして」と、当日のミッションとは異なる提案を重ねてしまい、それが採用されてしまったりする。今日は他にじっくり取り組みたい仕事があったのにやむなく後回し。売り上げは上がるが、思い描いていた業務設計はしっちゃかめっちゃかだ。

営業というのは多分に動物的な要素を含む。オンライン上でしか顔を合わせず、イヤホンから漏れ出る電子音で顧客の課題を聞き、頭の中だけで理屈をこね回して提出するプランもそれ相応には受けがよく、程々の受注成績を残す。けれども、実際に顧客の働く現場に赴いて、その街の空気を吸い、地のものを食し、一通り人並みに揉まれる(あるいは揉まれない)ことで、顧客の日常を簡易的に追体験する。そのうえで顧客の話を聞くと、顧客の口にする悩みの背景について多少なりとも想像が膨らみ、共感が強まり、貢献したいという意欲が刺激されてしまう。そうやって感情を揺さぶられた脳から吐き出されるアウトプットのほうがどうしても顧客の心を掴んでしまう。売上の量を見るならばオンラインだが、生み出される価値の質を見るなら断然対面営業なのだ。

問題は、そうやって取ってきた仕事が果たして本当に自分のやりたい仕事なのか、ということ。営業の役割的にはmustだし、能力的にはcanだけど、一個人としての価値観的にはwillではない、という場合が多い。その時々の素朴な感情としては人の役に立って嬉しいのだけれども、鳥瞰すれば顧客の気まぐれな思惑に振り回されているだけだ。それらの課題解決を続けたところで、自身のワークキャリアとして「これだけのものをやり遂げた」というパッケージにはなかなかなりにくい。自分が仕事を通じて生み出したい価値を定め、その価値を必要とする顧客を集めていく、ということが一介の勤め人の立場でも実現できたらいいのだけど、当社はまだまだエリアに縛られたルート営業で、顧客を選べる仕組みになっていない。来年の経営施策や組織体制にこのような発想をねじ込めるかどうかが来年の自分の働きがいを左右する。

働く場所や時間が自由になった分、「誰と働くか」「どんな働きをするか」という点の不自由さが気に障り始めた。欲を出せばきりがないが、徐々に「自由に働く」の本質に近づいている気はする。「"働く"の自由度」と「生み出したい価値の解像度」は相関関係にある。自らのビジョンの解像度によって、必要となる自由度は異なる、と言い換えても良い。これ以上解像度を鮮明にしようとすると、得られる自由度より伴う苦痛が大きい、という地点にどこかで到達する。とすれば多少の制約を甘んじて受け入れるというバランスの取れた選択も取りうるだろう。とりあえず自分にとっての最適解は、あと少しで手の届きそうな感触を味わえている。もしかしたら、その届かないギリギリのところでのたうち回っている方が、長く働き続けられるのかもしれないとも思っている。