un deux droit

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コミュニケーションの基礎代謝

シェアオフィスのラウンジでハロウィンパーティが開かれた。ケーキとコーヒーが振る舞われ、景品がもらえるちょっとした余興までついていた。完全自由参加でそのまま意に介さず仕事をしている人もいるが、フロアの半数近くの人間が参加しようと中央に集まっていた。入居2日目で参加するのは厚かましい感じもしたが、顔を売っておいて損はなかろうと意を決してジョイン。簡単な自己紹介を順繰りにしてゲーム開始。新参者にも関わらず遠慮なく決勝まで勝ち上がり、ランチ無料券ゲット。1日の飯代まで浮いた。
余興の間中、管理会社の社員の男性が、場を盛り上げようと努めて明るく声を出していた。間の良いリアクションとゲーム実況が場を暖めていた。普段の私ならその男性を遠目から眺め、その振る舞いを斜に構えて冷笑しているところだが、今日はなぜだかその姿にプロ意識を感じた。くだらないと言えばくだらず、あってもなくても構わない余興に全力を投じて楽しませる姿勢にプロ意識を感じた。

その後の帰宅途中、駅前で選挙演説をしている集団の横を通った。党名は名誉のために控えるが、マイクを握る男の喋りに熱がない。演説内容も暗記した文章をただ読み上げているような抑揚のなさで、胡散臭さを感じる。ターミナル駅の人混みに気圧されてしまったのかもしれないが、誰に強いられるでもなく自らの意思でわざわざ場所を占有して演説を打っているのだから、本当に全員の票をかっさらってやるという迫力でやれないものなのだろうか。笑いを取りに行くでも怒りに任せて喚き散らすでもいい。何か聴衆を巻き込む必死さが欲しい。ただでさえ風当たりの強い選挙活動なのだから、その程度の覚悟でするなよと思った。

自宅の最寄り駅を降りてからも、ボソボソとした声でティッシュを配る男の姿。誰が何の目的で配っているのか何のメッセージも読み取れない。案の定誰からも受け取ってもらえない。本人は嫌々やっているのか何か知らないが、そんな気のない配り方でその先のビジネスに繋がるのだろうか。

そういえば、昨日の朝の出勤時に、駅前を通るときに自転車を降りて押すよう促す「まちなか協議会」とか何とかいうジャケットを羽織った一団がいた。皆一様に「自転車は降りて押してください」と書いた看板を持っているが、ただ看板を持ったまま突っ立っている老人の横をどの自転車もすり抜けたのち、その先にいた女性のところで皆降りて押して歩くという光景が面白かった。その女性はしっかり一人一人に届くように声をかけて、降りてくれた人にきっちり頭を下げていた。その凛々しい姿を無視して自転車で突っ切れる鈍感な人間はいなかった。

何かの主義主張や目的をもって行動をしている以上、どうせやるなら本気でやるほうがいい。恥ずかしがったり手を抜いたりして適当にやるなら時間の無駄だ。看板を下ろして何の主義主張も目的もありませんと居直った方がマシだ。たとえその振る舞いが洗練されていなくとも、本気の行動は人を動かす。どんな仕事であれ基本的には人を動かすためにやっているものなのだから本気で打ち込まない理由はない。そんな根性論みたいなことを思った。

とりあえず練習として、今日の子どものお迎えでは、往来の親御さんにかける「お疲れ様です」の挨拶を、しっかり相手の目を見て、一人一人に向けてハッキリと投げかける意識をした。親御さんが子どもと同じクラスかどうかにかかわらず、手を抜かずに挨拶をしてみた。するとこれが意外と大変でしばらくやってると不意に意識が途切れておざなりな挨拶になる。挨拶ひとつとってもしっかり意識を集中させないとキレの良い振る舞いはできないと知る。普段いかに何かにつけ手を抜いて生きているかを痛感する。

こんな感じで妻との会話も堂々と抑揚をつけて話してみると「なんか今日は張りがある」との評価。「あなたとコミュニケーションを取るつもりがある」というメッセージを全身で表現すると相手もそれに誠実な応答をしてくれる。妻のことを普段悪く言っているが、私の普段の態度も気力の抜けた振る舞いだったのだろうなと思う。しかしこれもなかなか維持するのが難しい。完全に身体がなまっている。コミュニケーションも筋トレみたいなものだろうから負荷をかけ続けていい立ち振る舞いを体に馴染ませたい。