un deux droit

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理解に対する無理解

自民党LGBT理解増進法案の成立を先送りした件をニュースで見た。「法を盾に裁判が乱発する」という毎度おなじみの権利主張そのものを憎む意見や、「道徳的でない」「種の保存を目的とする生物の倫理に反する」などという、人間の存在意義が子作りにしかないみたいなぶっ飛んだ意見(子どものいない安倍さんはどんな気持ちでこの話聞いてるんだろう)、「男の体で心が女の人が女性の種目で出てメダルとる不条理」などという法案の趣旨から飛躍した慎重論など、香ばしい話が噴出している。


個人的には、そもそも「理解」を目標に据えている時点で筋が悪いと思っている。世の中には人の理解を超えたものが無数に転がっている。法案を考え進めている人たちが、何事も理路を尽くして説明されればかならずや理解の境地にたどり着ける、なんてことを素朴に信じているのだとしたら、自分たちの理解力を過大評価している。

LGBTの件に限って言えば、「理解」とはどのような状態を指すのか。

自民党の批判的な論客の方々は「自分もそのような性自認を持っている人と同じような感覚に(想像で)なる」なんてワンダーなことを想定したうえで、それは無理だ、という論を立てていないか。それは無理だろう。はなから共存できない理屈をこねくり回したいだけのように見える。

性的指向の方がまだイメージしやすいかもしれない。自分は男性で女性が好きである(あるいは女性で男性が好きである)とする。でも、異性愛と同性愛の割合が反転して、9割が男性→男性、あるいは女性→女性である世界を想像してみたとき、「お前異常だよ」と指弾され嘲笑されたとしたら、あなたは頑張って同性を好きになれるものだろうか?私には到底無理だ。同性を愛することを想像したときのぞっとする感じを、異性を愛することを想像したときに感じる人がいるのだ。逆に言うと、同性を愛することにぞっとする感じを覚える人が非常に多い、ということを、同性愛の人は想像することが非常に難しいと思う。多分。

あなたが異性愛者だとしたら、ただ割合上異性愛が多数派だから実感する機会がほぼ皆無なだけで、「異性愛なんて頭おかしいやろ、キモ」と思う人が一定数いるのだ。少なくとも私は、自分の性的指向を「キモ」と思われたらちょっと嫌な気持ちになる。これが自然なことじゃないの?とやっぱり思ってしまう。他人の性自認性的指向を理解しようとするより、自分の性自認性的指向を他人に理解してもらおうとすることの方がはるかに困難だ。でも今進んでいる議論は理解の「片面」だけしか見ていないように思う。

「理解」というのは「相互」なものだ。多数派が少数派を一方的に「理解してやる」なんて偉そうな態度がそもそもおかしいのだ。それなら「LGBTが性的多数者への理解を増進する法案」も作ってみてよ。「理解してもらう」のがいかに困難か一瞬でわかる。なのになぜ「理解はしてあげられる」と安直に思うのだろうか。

「お互いのことなんかぜーんぜんわからないんだから、変に干渉しあわないで各々好きにやりましょうや」
この態度は別に突き放しでも拒絶でもない。冷酷でも無関心でもない。
自民党の皆さんは、まずは「理解」の前に「寛容」からお勉強されてはいかがだろうか。


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