un deux droit

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「自分を大切にできないと他人を大切にできない」とはどういうことか

長たらしく、しかも安っぽい自己啓発的な題で申し訳ない。



最近の妻との口論は、原因を探ると全て「自分の思い・感情を無意識に犠牲にする」という私の性質にたどり着く。
私は、自己犠牲的→自己憐憫というパターンに嗜癖している気質であることに自覚はあった。しかし、それが他人を蔑ろにするということに接続するのだということは妻からの指摘で初めて理解した。
どういうことかというと、自分の意見を表明しないで押し殺す、他人の意思を尊重する、ということばかりやっていると、自分の意思が叶った・尊重されたということを喜ぶ感情が死に、そのために他人の意思に対する感受性が鈍り、最終的には無自覚に他人の意思を踏み躙るということが起きるのだ。
何より、単純に私だけが丸損する選択肢を私が何の躊躇もなく選ぶことは他人にとって奇妙に映るし、そのことで喜ぶ他人は実はそんなにいない。他人の不幸・不便・不都合を他人事として一切考慮しない人は私が思うより少ないらしい。大概は嬉しさより気まずさを感じるとのこと。そこがわからない時点でだいぶ感覚が狂ってるようだ。
私は我慢がデフォルトになっていて、これ以上は譲れないラインというところまで何も言わずニコニコしてるのに、その一線を超えた途端に急に態度が硬化して一切の妥協を許さないくらい意固地になってしまう。本当は遥かに前の段階で自分の意向とズレたタイミングがあって、そのタイミングで都度、自分は違う意見を持っているということを表明した方が相手にとって親切なのだ。私の許容範囲に見当がつかないことは相手にとって負担である。
私の気質は、少しのわがままが家族全体に迷惑をかけるような田舎の不自由な環境で幼少期を過ごしたことに起因する。一通りのおもちゃが買えるお店も、遊園地も映画館も、車で1時間以上走らなければなかったし、自力でたどり着く公共機関もろくになかった(そしてものすごい高額だった)。だから、能天気な意思表明自体をわがままとして憎むような思考回路が出来上がってしまっているのだと思う。この痩せ我慢の気質は苦労の多い子育て生活を耐える上ではプラスに働いているが、我慢の連続で気質が極端化しており、そのことが日常のコミュニケーションの質の悪化に拍車をかけてもいる。
妻からは「お願いだから私を大切にするためにあなた自身を大切にしてくれ」と懇願されている。いや、自分は大切にしているよ、と抗弁したが、妻から都度「はい、今のあなたの正直な気持ちは」と問われると、自分でも情けないほどに今の自分の思いを言語化することに時間がかかることがわかった。自分の本当の思いを無視することに慣れすぎて、都度のシーンで自分がどういう思いを抱いているのか認知できなくなっているのだ。来年一年かけてリハビリをしなければならないなと暗澹とした気持ちになっている。