un deux droit

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思考停止ツールとしての子どもと子育て

今日で仕事納め。

駅はいち早く帰省する家族連れや旅行客で賑わい、それとは正反対の方向の閑散としたオフィス街へ淋しく歩みを進める。

1年を振り返っても、何も思い返すことが無い。

昨日も夜泣きの対応で深夜に起こされ、毎朝頭が働いてない状態だ。

とにかく毎日が忙しくて、当座の問題にかかりきりになり、自分の人生をどういう方向に進めていこうか、ということに頭を思い悩ませる余地がない。

それでいて、不幸せかと言われるとそんなことはない。

思いのほか子どもというのは可愛くて、一緒に過ごすと幸福感を味わえる。自分の存在が不可欠に思えて自己肯定感も維持できる。

 

 

しかし、果たして本当にそれでいいのか、というと正直言って自信がない。

それはただの問題の先延ばしなのではないか?

冷静に今を俯瞰すれば、日本社会の沈没、見通しの立たない未来を直視して、みじめな人生を送らないで済むように戦略を立て、日々を過ごさなければならないはずだ。でも自分の手持ちの財産と能力では、筋の良い中長期展望を掲げられないでいることに、本当は気付いている。端的に言って詰んでいる。まだ駒は動かせるけど、あと十数手先には投了する目算が立っている。駒を動かせば動かすだけ投了のタイミングは早まる。だから、子育てを大義名分にして、自分のターンが来ているのに次の一手を打つことを保留している。あけすけに言うとこんな感じだ。

さっさと頭を垂れて、「参りました」と一言述べて、さっさと次の対局に臨んだ方がいいに決まっている。しかし、人生は将棋と違って持ち時間がオーバーして強制的に負けを宣告してもらえる優しいシステムはない。自分で負けを認めるまで次の対局に進めないのだ。一方で人生の持ち時間自体は容赦なく減っていく。もちろん人生で臨める対局の数もどんどん減っていく。今のところ人生という将棋の勝ち筋が掴めていない。なので、対局を重ねればしばらく負け続けるだろうし、段も落ちていく。来年はその惨めさに塗れる年にしなければならない。

子どもは可愛いし、子育ては簡単に充実感を与えてくれるが、それに甘えて思考停止してしまっては、子どもを自分の心の安定のために利用していることになる。むしろ私が子どものために利用されるべき立場なのだから、指針になったり良い影響を与えられる生き方を示していかねばと思う。